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★みなさん、今日は何の日かお分かりですか?

★みなさん、今日は何の日かお分かりですか?今日は終戦記念日です。

  2018年9月2日 記
 え?前回8月15日に同じこと書いたじゃない、と言われるかもしれませんが、本日9月2日は世界的に第2次世界大戦が集結した日として認知されているのです。「対日勝利記念日」です。
海外ではVictory over Japan Day とかV-J Day、またはV-P Dayと呼ばれ、記念切手やコインが発行されました。
終戦時の夏、ポツダム宣言を「黙殺」したために原爆が2発も落とされ、日本各地で無差別爆撃を受けたが、軍上層部や御前会議では終戦の決断ができずグズグズしてどんどん犠牲者が増えて行きました。本土決戦が迫り結局8月14日になってやっと降伏することが決まった。翌15日に「終戦に関する詔書(玉音放送)」がラジオで流れ、国内では負けたんだ〜、終わったんだ〜となるわけだけれど、海外では別にその放送聞いてるわけじゃないですから大きな意味は持ちません。太平洋上の島や北海道の北の島など、日本兵自体に伝わっていないケースもあったのですから。( なお本土に敵が上陸しても民間人含め玉砕するのだと主張して玉音放送を流させまいとする陸軍のクーデターまで起こる始末でしたが、これは以前書きましたので繰り返しません )
この国内向けの日本語放送よりも、ポツダム宣言をやっと受諾して「降伏」するということで、東京湾に浮かぶ巨大な戦艦ミズーリの甲板で9月2日に調印した、これが重要なのですね。
写真やネット動画でも多く見られます。→こちら等
 これだけ大きな戦争になると終結には確固たる手続きが必要。いくら連合国側に連絡だけしても、口約束だけで破る可能性があるからです。しかも開戦時の日本軍によるハワイ攻撃が、宣戦布告前の卑怯な行動とされているため、信用がないから。(本当は宣戦布告の通達は真珠湾攻撃の前に送信済みだったが、大使館での担当日本人が解読・翻訳・伝達をまごまごしたために遅れたのが真実。だがあまり知られていない。一方で米国は独自に傍受・解読して知っていたが卑怯な悪者相手に闘うという大義が必要だったため、伏せていたらしい。米自国民は知りたくない事実。)
 例えば当時ヒトラー率いるナチスは日本と同盟だったが、仮にもし降参しますと連合国側に連絡だけして来ても信じられないでしょう。やはり各地で武装解除した上でナチ本人なりヒムラーなりヘスが正式な場に同席して降伏条件を記したしかるべき書類にサインや調印しなければ、認定できないでしょう。(これをせず、自殺したわけですが)
 というわけで東京湾に浮かぶ巨大な戦艦ミズーリの甲板でマッカーサーや連合国各国代表が立ち会う中、日本からは陸軍、海軍、外務省の代表たちが参列し、外務大臣の重光葵、参謀総長の梅津美治郎が9月2日、署名した。
ちなみにアメリカ軍は、この際にひときわ大きい兵隊を選んで並べさせ、体格的にも優れていることを強調したといいます。

これにて総数8千万人を超える犠牲者を出した大戦が終結したのだ。
それで私は8月15日と9月2日は特別な日としてお経を唱えたり、前後には毎年新たに浮かび上がる情報からドキュメンタリーを元に学んだりします。
その中で、一般的な学校教育や、日常的な報道では伝えられていないけれど、重要なのではないか?と思うことを書いて、みなさんに知っていただきたいと思う次第なのです。

 以前は体験した人がなぜもっと語らないのか、伝えないのか…と思っていました。
でも、よく考えたら戦場で兵士として戦った人は相手を殺さざるを得なかった人も多いから、戦争とはいえその事実を講演などで語るのは、抵抗があって当然なのです。こどもたち相手の会では触れるべきかどうか色んな意味で慎重になるべき。また相手国の人からも恨まれるわけで危険にさらされる恐怖感もあります。
また直接手を下していない人や、民間人で命からがら極限の危険を生き延びた人も、つらく悲惨な体験は長い年月が経っても心を締め付けるのであって、仮にその後家族ができて幸せな生活をしているようでも拭い去れず、夢に出たり、人に話せず苦しんで過ごす方も大勢いる。話すことで何か大切なものが壊れてしまうのではないか?偏見や軽蔑にさらされてしまわないか、自分はともかく家族がいわれのない差別にさらされはしないか、という恐怖もありましょう。
だから講演会や、学校やNPOなどの催し、メディアのインタビューなどで体験談を明かしてくださる方はとても勇気のある方で稀有な存在なのだな、と思います。

★兵隊さんで悲惨なのは、やはり太平洋上の島々やニューギニア戦線で食料も医療も弾薬も供給されず、飢え死にしたり病死したりした人たち。
現在の装備を持ってジャングル入りしても、その高温多湿、スコール、ぬかるみ、吸血動物(ヒル、蚊など)、蛇、など難航するのを、予防注射もなく、ろくに食べられず、疲労困憊に栄養失調状態で、マラリアで死んだ人は多い。
ガダルカナル島では1万5千人、インパールでは4万人、ルソン島では5万人以上が羅患して亡くなった。これは本人も家族も悔し過ぎる死因です。敵と戦って散ったというならばまだしも、食料が届かなくてやせ細って動けなくなり、置いてけぼりになっていったのです。中には靴が豚皮でできているので煮て食べた人もいたということです。やがて空腹の中、意識が混濁していきますう。体力が落ちていれば当然マラリアに対する抵抗力もありませんから、熱にうなされますます動けなくなります。やがて餓死して打ち捨てられ、虫や動物に食され、スコールを浴び、泥に沈み、白骨化していく。そして今も回収されず、ジャングルの中で眠っているのです。日本政府これらを調査、捜索、回収する意識はありません。
生き延びたり捕虜になった日本兵の写真を見ると、ガリガリであばらが浮き出して、ミイラ寸前。敵兵も驚いたことでしょう。いかに司令部が無能で指揮官が思考力不足だったかが分かります。
ジャングルには逆に獲物、食べ物はあるはずなので、一旦無意味な行軍をやめてこれらを採取する方法を確立すればもう少し違ったはず。実際に小野田少尉(ルバング島に29年)や横井さん(グアム島に28年)のように終戦を知らず長年ジャングルで生き延びた人もいるぐらいだから。兵士が倒れていけばそれだけ戦力不足になるということが分からなかったのか。
または蚊に刺されて感染して死んだというのも悔しい限りでしょう。有効な薬のキニーネは不足していたため支給されたのは上官だけで、兵隊は消耗品扱い。このような戦い方の意識で兵器の性能、体格、兵士の数、情報に勝る大国相手に勝てるはずがないでしょう。
ですから終戦記念日にはこうした無念の犠牲者が成仏できますようにと、せめてものお祈りを捧げるのです。

★民間人にも悲惨な出来事がたくさん起きました。
大東亜共栄圏という名目のもと「満州国」(現在の中国東北部)という植民地支配状態で入職してい た日本人は、敗戦と同時に、追い出されます。もともと住んでいた先住の農民たちは土地を取り上げられて差別されて来た恨みを晴らすため、棍棒やナタなどを持って集団になって日本人の家を襲い、略奪します。ほとんどの地域、兵隊に出ていて抵抗できる男性はいません。女子どもと老人だけです。棍棒で顔の形が変 わるほど殴られたり、性的暴行を加えられたり、殺された人も多いということです。
皆で畑の中に隠れて、夜の闇に紛れて少しずつ移動して、なんとか 日本へ逃れる手段を探します。でも港までははるか遠く、交通手段はありません。軍は武装解除や捕虜になって助けには来てくれません。皆さん、もしそのような状況下に置かれたらどうなさいますか?食べ物もなく、怪我人もいる、小さな子どももいる、病気になるものも出る。
 運良く列車に乗れても線路が破壊されて進めない。こういう地域ほど国が引き揚げ対策は遅れて、特にソ連の占領地域は引き揚げに関して全く無関心だったということです。
港まで遠い地域は何ヶ月もケアが遅れて、満州にいた日本人推定155万人、帰国できたのは127万人。
 ある人の告白によると、集団で隠れていたが、年老いた村長さんはじめ、皆で話し合って逃亡をあきらめ、夜の畑でお互いが殺しあう集団自決を行なったということです。といっても毒薬も武器もない。はじめに力のない幼子を首を締めて殺し、大人どうしが首を絞めあって殺すのだそうです。泣きながら、すぐ後から行くからねと我が子の首を絞める母親、そして大人どうしでも、という地獄絵図。しかし生き残ってしまった子どもがご本人で、山の中を隠れ、何日もかけて命からがら港に着いて引き揚げ船に乗って帰って来たということです。
このような体験をした人たちは沢山いて、焼き討ちにあったり、ソ連兵に襲われたり、収容所に捕らえられたり、戦争は終わっているのに、心にも体にも忘れ得ぬ苦痛を刻み込まれて、気の遠くなるような過酷な道のりを経て日本に帰って来た人たち。
 また、生き延びる手助けをしてくれた中国人の人たちも多くいた証言があります。幼子を連れては逃げ切れないということで、子供だけ預かってもらって、後ろ髪 ひかれる思いで引き揚げた人たち。その時の子どもが「中国残留孤児」で、のちに政府が親子再会の手はずを作って船で帰国できた人もいます。もう大人になっ ていて記憶が曖昧な人も。
このように戦争の及ぼす悲劇は戦闘そのもの以外に多岐にわたります。

★同時多発で太平洋上の各島で、中 国大陸で、朝鮮半島で、硫黄島で、シベリアで、ビルマで、フィリピンで、沖縄で、ニューギニアで、極寒のアリューシャン列島で、国内で、悲惨な出来事が起きた。それらのすべてに熟知していなければ意見を述べてはいけないということは無いはず。
それにしてもどう考えたって、巻き込んだ地域が広すぎ る。素人が考えたって、資源のない小さな島が地球上のこれだけの範囲に軍隊を置いて、気候も必要装備も違う地域に適切な弾薬の補充、医療と食料の供給、相 手に分からぬよう正確に連絡して勝つなど到底無理でしょう。現在の技術でも無理。
そして戦場で亡くなった兵士は、実際の戦闘より、食料不足による餓死、ジャングルでの病気によるものが多い。
これはほとんどが軍上層部の作戦ミスや自国軍の兵士をゲームの駒以下にしか見ていないような、人命を軽視した机上の地図上でただ動かすだけ、失敗は隠す、軍派閥での意地の張り合い化かし合い・・・。
高 級軍属、大本営の司令官はどろどろの前線の実地体験がないので、想像力の欠如が著しい。標高の違い、湿度の違い、降雨量、蚊など昆虫の媒介による感染病、 地面のぬかるみによる体力のロス、熱中症、脱水症、栄養失調。むしろ登山家や医師、動物学者など専門家を招集して対策を練るぐらいでなければいけないので はないでしょうか。
こういう無能な指導者、指揮官をポストにつけたことが罪なのです。そういうお国の構造だったのですね。
 今私たちはこういうことを繰り返さないために、全ての被害や戦況を学んでいなければ意見を述べてはいけないということはありませんが、せめて終戦記念日などにじっくり調べてみるのは大切と思うのです。
もちろん洗脳に近い教育によって天皇は神であり、日本は特別な加護を受けているカミカゼの国、と盲信してやまなかった人たちもいて、民間人やメディアも歯止めが効かなかったということは理解しておく必要があります。
当時の子どもたちの絵日記を読んでみると、完全に国粋主義に染まっています。兵隊として戦うのが憧れで、誇りで、兵隊さんごっこをします。伝えられる戦況で一喜一憂します。そして鬼畜米英に捕虜になるぐらいなら自決すべしという「戦陣訓」が叩き込まれていきます。
一方で知性のある人たちは疑問に思いましたが、意見を述べようものなら憲兵に逮捕されてしまいます。非国民と村八分にされた人もいるでしょう。しかし桐生悠々のように堂々と新聞で批判を書いて、「関東防空大演習を嗤ふ(わらう)」を発表するような強者もいました。
また小説家で軍部の命令で、仕方なく戦争を賛美する作品を書いたり、兵士の活躍を書いた者、逆に拒否して投獄された者、軍隊を鼓舞する曲を書いた音楽家・・など芸術表現にも恐ろしい影を落としました。
 こうしたことは知っておくべきです。細かな戦況の変化の日時や、犠牲者数を暗記していなくても、今後意識を操作されないか防御する準備は必要と思うのです。 つまりプロパガンダやミスリーディングに騙されないように、あるいは加担しないように注意を払う必要があること。それは考えもしない手法で意識に滑り込ん でくる。ある時は楽しいイベントとセットで、ある時は前回書いたように新たなストレスを生み出し、それを解決するためにお金を払うという偽りの必要性に よって、あるいは敵のように想定されたものに対する正義という衣をまとって現れるかもしれないのです。
技術や情報の洪水の中でかつてはなかった手法で産み付けられるかもしれない。
だから私たちは過去の出来事を注意深く分析し、記憶にとどめ、結局は人間の根源にある純粋さ、情緒、思いやり、発想の豊かさを持って生きて行くべきと思うのです。

まだ書き足りないことは沢山ありますが、一旦ここで筆を置くことにします。

    2018年9月2日 記
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