ヒグラシの鳴き声をキーワードにしつつ、民俗学、大脳生理学、心理学の断片に身近な観点から触れます。
以前の分はこちらから→ヒグラシジャーナル

 

 ★「今年の録音」

   2015年8月8日 記
私の半生をかけたヒグラシの鳴き声録音も集大成に入った感じで、新しい場所を次々発見しています。
実は今年は作曲に集中する為にあまりやらないつもりだったのですが、いい場所でいい音が録れてしまったので、また深みにはまってしまいました。(笑)でも録音しながらアウトドアチェアに座って楽譜をかいて作曲したりしています。涼しいしはかどります。

また、今まで、主目的の、みなさんの知らない「朝の荘厳な全員合唱」は録ってきましたが、一般にイメージされる「夕暮れのだんだん消え入る鳴き声」はなかなか録れないでいました。
 というのは、これは多くの人が知っている「音」なので、能勢がわざわざ録音して紹介する必要もないかな、と思っていたのですが、やはりCDとして提供する時に、未知のSF的な鳴き方だけではご不満かな・・。と思い、癒され〜る〜音も録音しようと時々試みて来たのですが、なかなか難しい。
 朝4時というのはまだ人間どもがあまり活動していないので、山奥などに行けば余分な音が入らないでとれる場所がなんとか見つけられるのですが、夕方6時頃はそうは行きません。
 まず他のセミの鳴き声ががんがんにかぶってますし、車の音、飛行機の音、飼い犬の遠吠え、カラスの鳴き声、電車の通る音と踏切の遮断機の音、そして救急車のサイレンなど耳では気づかなかった音がマイクには分け隔てなく収録されてしまうのです。普段人間の耳は、必要な分だけ聞き取るよう取捨選択しているのです。車の通りの多い歩道でも友人と話せる場合、必要な音にフォーカスして、不要なノイズは無視しようとするわけですね。保育園でたくさんのこどもが遊んでいても、母親は自分のこどもの声を聞き分けたり。また、学校で休み時間にざわざわしてる中、誰かが自分の名前を言った?とびくっとする。(これは他人の評価を気にしている、イジメの対象にならないかおびえている、など心理的作用も働きますが。)
ちなみにこの能力の低い人間は大きい声で話します。温泉で馬鹿でかい声で話す「無神経系」の若者、ショッピングモールででかい声でしゃべるおばはん。(自分の話すことを聞いてもらえないと不安・不満なのでしょう。with内容の価値は著しく低い。)羞恥心を備えた優れた人間関係があれば、「声でけ〜よ」と注意してくれるが、たいていこういうやからは全員つるんででかい声でしゃべります。
 ところがマイクというのはそういう「嗜好」「心理作用」に関係なくまんべんなく録ってしまいます。もちろんある方向にだけ感度を高めた「超指向性マイク」とか、品質が悪くて低域が録れない、逆に高域がクリアーに録れないということはあります。でも良い音で録る為の品質のものですと、録音時に気づかなかった音が入っているものです。
 以前書きましたが、現場で可能な時はレコーダーにヘッドフォンをつないで向きやレベルを決めます。すると、実際の耳では聞こえなかった音がヘッドフォンをしたとたんに流れ込んできます。鳥のささやき声、風で葉と葉の擦れ合う音、遠くの沢の音・・・。雨の後なんかは、住宅地では次の日晴れていても、山の沢では3日ぐらいは水量がすごくて「どどどど・・」「ごォ〜〜」という音がするので、録音に適しません。これらは経験するうちに、ヘッドフォンをしなくても、この位置でこの向きならこういう音のはず、と予測出来るようになってきました。
 それで前の日に、目星を付けた場所に行ってニイニイゼミやアブラゼミ、カラスが鳴いていないか、確かめておき、翌日録音に行きます。このような経験値と工夫によって一般にイメージされる「夕暮れのだんだん消え入る鳴き声」は割と録れました。

 また、森の中ではなく、外から聴くまとまった鳴き声を録るのも困難でした。
森の中で録ると右から聞こえたり左から聞こえたりとステレオ効果がきわだって立体的なのですが、個々の鳴き方がくっきりして私の言う「リレー鳴き」「シンクロ鳴き」「鈴鳴き」を確かめることはできますが、「オルガン鳴き」のような全体に統合された音は紹介できないのです。
音楽で言えば、オーケストラのステージで奏者の席で聴けば、こちらからコントラバス、こちらからヴァイオリン群、隣からフルート、後ろからティンパニ、といったように周囲から聴こえてきますが、曲全体のバランスは損ないます。でも客席側から録ると、空気中で振動が混ざって。曲の意図されたバランスが浮かび上がってきます。
それで私の家の裏山等、少し離れた「引き」「俯瞰」で録りたいのですが難しいのです。

 やはりこちら側は人間の世界なので、人工的な音が入ってしまったり、自動車の音等、人間の気配が入ってしまうのです。
どんなに現場で涼しい気温やそよ風、開けた地形等、私が気持ちよくても聴く人には分からないので、音を優先しなければいけません。そこが映像と違うところです。

それが今年は、良い場所が見つけられて、この森が鳴く「引き」も録れたのです。

また、ちょろちょろ・・・しゃらしゃら・・という小川のさざめきと一緒に鳴く夕方の声も録れました。

毎年行っている「アトリエちびくろ」の「夏の図工教室」のお祭りがたいてい8月最初の土日で、この時は茨城の山で録音するのですが、その間、私の地元や八王子などは録れません。どうやらその間にチャンスがあったようなのです。今回はお祭りが次の週だったのと、結局行くのを断念したので、連続して録れました。これも関係して、収録したい音はほぼ録れたと思うので、CDに出来ると思います。

ただ、もともとン十年前にその茨城の「夏の図工教室」で木の上で寝ていて早朝に聴いた「UFO鳴き」はいまだ録れていません。そもそもこの謎を解きたくて録音が始まったのですが・・。本当にUFOが来ていたのかな?ああ、あの時勇気を出して、目を開けて確かめていたら・・・。でもそのとき宇宙人と目が合っていたら、ここにいないかもしれないし?
人生ッてそういうものかも知れませんね。「ニューシネマ・パラダイス」的な。
あとは再現でまた桜の木の上に簡易ツリーハウスを作って寝てみるか・・。すると例えば威嚇の為の特別な鳴き方とか、山のオルガン鳴きが地上とは違う響きに聞こえるとか、何かあるのかも?でもあの木の下は学生達が「泥プール」やゴミ穴でかなり掘り返して、ヒグラシがいなくなってしまったので、どうかな。

ともかく、みなさんそろそろヒグラシも寿命が近づいて来て、人里ではツクツクボウシにバトンタッチしつつあります。貴重な鳴き声に耳を傾けてみましょう。

 私は、夜明けに山の峰で聴くのが好きです。真っ暗な中、谷のほうからピアニッシモのオルガンのような持続音が柔らかい風に乗って少しずつ運ばれてきます。
しばらくして空がわずかに蒼く色着いて来ると、鳴き声の固まりは少しずつ抑揚がついて教会の少年合唱団のコラールのようです。まだ個々のひゅひゅひゅひゅ・・という音は分離してきません。シンクロ鳴きをリレーすることで持続音が谷で反射したり、空気中で混じったり風で拡散したりして一つの音色に聞こえるのです。
やがて音が谷を登って来ると、それぞれの鳴き声が連なっていることが分かるようになります。これは彼らが鳴きながら暗い側から光を求めて移動して来るのか、谷底から上に向かって徐々に目覚めて来るのか、まだわかりません。ただ、集団で飛ぶのは見たことがありません。
そして徐々に大きくなり、バックの持続音に加えて2匹以上がシンクロしていななく澄んだ鳴き声が浮かび上がってきます。同時に森の木々の形が見えるようになってきます。
空も薄いブルーになってきて、谷底から急斜面を登って来た、見えない透明の大きな竜のウロコがくちずさむかのようにあちらこちらからわずかに音程の違う鳴き声が聞こえてきます。
空の一部に朝焼けのオレンジが見えるとクライマックスで谷から自分のいる峠まで全体が震えて、たくさんのひゅひゅひゅひゅ・・がそらに飛び立って行くようです。と同時に涼しい風がふわ〜〜っと上がってきます。その風と音を裸になって浴びます。最高のヒグラシシャワー。目をつぶって深呼吸して、気化熱でひんやりする皮膚を感じながら、この宇宙に身をゆだねます。体も魂も浄化されるようです。
だれか一緒に裸で浴びてくれる女の人いないかな〜。(70年代じゃないんだよッ)

まあ、これは一般の人は中々体験出来ないでしょうけれど、午後に郊外で川をさかのぼって行ったり、滝の近くに行くとマイナスイオン効果と一緒に鳴き声を浴びれると思います。多い地域なら「鈴鳴き」といって日中でもグループで場所を変えながら鳴いています。そして少ない地域では5時過ぎから7時にかけて悲しげな感じで個別に鳴きます。侘び寂びの世界です。ただ、一般に映画やアニメで使われるような1匹が単独で時々鳴く、という状況はあまり出くわさないでしょう。(これはまた別の機会に)
 また、緑の多い地域、例えばムサ美の近く、鷹の台駅の裏の公園や、小平市で玉川上水や野火止用水沿い、小金井市なら小金井公園、瑞穂町ならスカイホールや農業高校近辺、青梅市だと青梅街道沿いを宮ノ平駅あたりから奥多摩方面等。
またはゴルフ場の近くではけっこう聴けることが多いです。
家の近くで鳴いているのに、朝の鳴き声を知らない人が多いので、もったいないな〜と思います。いったん4時23分に起きて聴いて、味わったらまた寝てもいいのに。
でも、聴けないよ、いないよ、という人は、私の発売するCDをお買い求めください。全額ではないですが東北復興支援に寄付します。

  2015年8月8日 記

 

★みなさん、今日は何の日かお分かりですか?

★みなさん、今日は何の日かお分かりですか?今日は終戦記念日です。

  2018年9月2日 記
 え?前回8月15日に同じこと書いたじゃない、と言われるかもしれませんが、本日9月2日は世界的に第2次世界大戦が集結した日として認知されているのです。「対日勝利記念日」です。
海外ではVictory over Japan Day とかV-J Day、またはV-P Dayと呼ばれ、記念切手やコインが発行されました。
終戦時の夏、ポツダム宣言を「黙殺」したために原爆が2発も落とされ、日本各地で無差別爆撃を受けたが、軍上層部や御前会議では終戦の決断ができずグズグズしてどんどん犠牲者が増えて行きました。本土決戦が迫り結局8月14日になってやっと降伏することが決まった。翌15日に「終戦に関する詔書(玉音放送)」がラジオで流れ、国内では負けたんだ〜、終わったんだ〜となるわけだけれど、海外では別にその放送聞いてるわけじゃないですから大きな意味は持ちません。太平洋上の島や北海道の北の島など、日本兵自体に伝わっていないケースもあったのですから。( なお本土に敵が上陸しても民間人含め玉砕するのだと主張して玉音放送を流させまいとする陸軍のクーデターまで起こる始末でしたが、これは以前書きましたので繰り返しません )
この国内向けの日本語放送よりも、ポツダム宣言をやっと受諾して「降伏」するということで、東京湾に浮かぶ巨大な戦艦ミズーリの甲板で9月2日に調印した、これが重要なのですね。
写真やネット動画でも多く見られます。→こちら等
 これだけ大きな戦争になると終結には確固たる手続きが必要。いくら連合国側に連絡だけしても、口約束だけで破る可能性があるからです。しかも開戦時の日本軍によるハワイ攻撃が、宣戦布告前の卑怯な行動とされているため、信用がないから。(本当は宣戦布告の通達は真珠湾攻撃の前に送信済みだったが、大使館での担当日本人が解読・翻訳・伝達をまごまごしたために遅れたのが真実。だがあまり知られていない。一方で米国は独自に傍受・解読して知っていたが卑怯な悪者相手に闘うという大義が必要だったため、伏せていたらしい。米自国民は知りたくない事実。)
 例えば当時ヒトラー率いるナチスは日本と同盟だったが、仮にもし降参しますと連合国側に連絡だけして来ても信じられないでしょう。やはり各地で武装解除した上でナチ本人なりヒムラーなりヘスが正式な場に同席して降伏条件を記したしかるべき書類にサインや調印しなければ、認定できないでしょう。(これをせず、自殺したわけですが)
 というわけで東京湾に浮かぶ巨大な戦艦ミズーリの甲板でマッカーサーや連合国各国代表が立ち会う中、日本からは陸軍、海軍、外務省の代表たちが参列し、外務大臣の重光葵、参謀総長の梅津美治郎が9月2日、署名した。
ちなみにアメリカ軍は、この際にひときわ大きい兵隊を選んで並べさせ、体格的にも優れていることを強調したといいます。

これにて総数8千万人を超える犠牲者を出した大戦が終結したのだ。
それで私は8月15日と9月2日は特別な日としてお経を唱えたり、前後には毎年新たに浮かび上がる情報からドキュメンタリーを元に学んだりします。
その中で、一般的な学校教育や、日常的な報道では伝えられていないけれど、重要なのではないか?と思うことを書いて、みなさんに知っていただきたいと思う次第なのです。

 以前は体験した人がなぜもっと語らないのか、伝えないのか…と思っていました。
でも、よく考えたら戦場で兵士として戦った人は相手を殺さざるを得なかった人も多いから、戦争とはいえその事実を講演などで語るのは、抵抗があって当然なのです。こどもたち相手の会では触れるべきかどうか色んな意味で慎重になるべき。また相手国の人からも恨まれるわけで危険にさらされる恐怖感もあります。
また直接手を下していない人や、民間人で命からがら極限の危険を生き延びた人も、つらく悲惨な体験は長い年月が経っても心を締め付けるのであって、仮にその後家族ができて幸せな生活をしているようでも拭い去れず、夢に出たり、人に話せず苦しんで過ごす方も大勢いる。話すことで何か大切なものが壊れてしまうのではないか?偏見や軽蔑にさらされてしまわないか、自分はともかく家族がいわれのない差別にさらされはしないか、という恐怖もありましょう。
だから講演会や、学校やNPOなどの催し、メディアのインタビューなどで体験談を明かしてくださる方はとても勇気のある方で稀有な存在なのだな、と思います。

★兵隊さんで悲惨なのは、やはり太平洋上の島々やニューギニア戦線で食料も医療も弾薬も供給されず、飢え死にしたり病死したりした人たち。
現在の装備を持ってジャングル入りしても、その高温多湿、スコール、ぬかるみ、吸血動物(ヒル、蚊など)、蛇、など難航するのを、予防注射もなく、ろくに食べられず、疲労困憊に栄養失調状態で、マラリアで死んだ人は多い。
ガダルカナル島では1万5千人、インパールでは4万人、ルソン島では5万人以上が羅患して亡くなった。これは本人も家族も悔し過ぎる死因です。敵と戦って散ったというならばまだしも、食料が届かなくてやせ細って動けなくなり、置いてけぼりになっていったのです。中には靴が豚皮でできているので煮て食べた人もいたということです。やがて空腹の中、意識が混濁していきますう。体力が落ちていれば当然マラリアに対する抵抗力もありませんから、熱にうなされますます動けなくなります。やがて餓死して打ち捨てられ、虫や動物に食され、スコールを浴び、泥に沈み、白骨化していく。そして今も回収されず、ジャングルの中で眠っているのです。日本政府これらを調査、捜索、回収する意識はありません。
生き延びたり捕虜になった日本兵の写真を見ると、ガリガリであばらが浮き出して、ミイラ寸前。敵兵も驚いたことでしょう。いかに司令部が無能で指揮官が思考力不足だったかが分かります。
ジャングルには逆に獲物、食べ物はあるはずなので、一旦無意味な行軍をやめてこれらを採取する方法を確立すればもう少し違ったはず。実際に小野田少尉(ルバング島に29年)や横井さん(グアム島に28年)のように終戦を知らず長年ジャングルで生き延びた人もいるぐらいだから。兵士が倒れていけばそれだけ戦力不足になるということが分からなかったのか。
または蚊に刺されて感染して死んだというのも悔しい限りでしょう。有効な薬のキニーネは不足していたため支給されたのは上官だけで、兵隊は消耗品扱い。このような戦い方の意識で兵器の性能、体格、兵士の数、情報に勝る大国相手に勝てるはずがないでしょう。
ですから終戦記念日にはこうした無念の犠牲者が成仏できますようにと、せめてものお祈りを捧げるのです。

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★終戦記念日に。 人間は自分の日常から遠く離れた内容からは、目をそらしたくなる

  2018年8月15日  記

★人間は自分の日常から遠く離れた、忌避的な内容からは、目をそらしたくなる。
聞かなかったことにする、知らないふりをしたくなる。自分の身に起こったことでさえそうして心の安定を保とうとします。

 ですから遠い過去に起こった想像を絶する悲惨なことごとを、伝えられて真正面から捉えて、解決方法はないのか、と向かい合える人は多くはないです。
学校教育の中で戦争の悲惨さを写真などを交えて教えても、今ひとつ入ってこない。
その理由の1つに、自分が無力で重火器の前にさらされた時、ということを想像できないこと、重火器の威力自体を知らない、ということがあります。
カッコイイ漫画や映画の主人公は、敵の軍団が撃ちまくる弾幕の中でも当たらず、こちらが撃った弾では敵が次々と倒れる。
 もし主人公が撃たれてもすぐ治る。こういうことに慣れてしまっているのです。
チャンバラの昔から「活劇」というものはそういうものとして描かれてきました。
その後、死後の世界でも特訓して生き返る、又は幽霊として参戦する、という設定も登場する。
 ですから一回撃たれれば終わり、やり直しはきかない、という恐怖感が想像出来にくくなっています。
 この40年ほどはビデオゲーム(コンピュータやケータイ、ゲームセンターの機器)では、撃たれて死んでも次のゲームができるのが普通です。格闘技で闘って、残酷に倒されてもすぐ第2ラウンドが始まり無傷のコンディションで再戦します。これを子供の頃から1日に何十回も繰り返し、成長過程で何万回も行う。
これでは「やられる」という恐怖を想像するのは身につかないと思います。
実際に総合格闘技の試合などに出たとして、殴られれば痛いし鼻血もでるし、まぶたが腫れて見えにくくなります。蹴られれば、その激痛に、内臓が破裂したか もしれない、足が折れたかもしれないと動揺します。腕を絡まれれば、肘の靭帯が損傷するかも、首を絞められれば息ができず、死ぬかも、と思います。そうし た恐怖感、焦燥感、絶望感、恥ずかしさ、悔しさ、そういうものがビデオゲームにはありません。自分は柔道や少林寺拳法を学んだことがありますので、想像で きます。
 しかし銃火器では全く通用しないでしょう。遠くから引き金を引く(クリック)だけでお腹に穴が開いたり、頭が吹っ飛んでしまうのですから。
ゲームの中では簡単に続きができるし、相手を弔ったり、家族に謝罪に行ったりしません。
 もしコンピューター側がやられた時に勝手に再起動して再戦して来たら?泥沼の復讐合戦になって終わりがなくなります。そうなれば睡眠時間や、友人との交流、学びの機会は浸食され、肉体的にも精神的にも不健康な状態になるでしょう。
そう、つまりこれらは人間が、「わざわざストレスを作り出して、それを解決したくなる欲望を利用した商売」なわけです。これに踊らされてお金を払い続け、マインドコントロールされている状態ってもしかしたらたくさんない?
ドラマや映画での敵対設定、パチンコや競馬などのギャンブルとか、コレクターズアイテムとか、ジェットコースターとか、おばけ屋敷とか、入手困難なチケットとか。

  パチンコ場に行かなければ「負ける、すられる」という悔しい状態には出会いません。いったんお金を損すると取り戻したいという欲求が生まれ、抜けられなくなります。その中で適度に時々勝たせる設定に なっているので、「ラッキー!運が向いて来た」とか勘違いして続けてしまうのです。でも商売ですから、お客の方が儲け続けるようにはできていません。倒産 しますから。1ヶ月単位、1年単位で使ったお金、戻ったお金をメモしておけばマイナスになっているはずです。そしてその収益は、実は国外に吸い取られていたりします。
有名なアニメの設定やキャラクターなどもこの産業に利用されます。契約すると凄い利益になるため断れないのでしょう。
  かつて「たまごっち」というおもちゃがありました。小型の丸っこい端末のビデオゲームで、架空の生き物を育てますが、頻繁に面倒を見ないと死んでし まったり、凶暴になってしまったりする。そこで子どもたちは常に持ち歩き、育て具合を見せ合ったりしますが、授業中もいじったりするので、学校では困らさ れました。(私はかつて教員でしたので)
さらにこれが、生産数を少なくしたり、出荷を制限したりすることで「欲しい人が買えないというストレス」を生み出し、レアもの感を演出する。
するとお金に余裕のある人は高値でも買うということで、ネットオークションなどで法外な値段で取引される。話題にもなり注目される。ただしこの出品者がBAN○AI関係者でないという保証があるのかな。
     今、似たようなことがあります。「ガチャガチャ」とか「ガシャポン」と呼ばれるカプセルトイですね。昔から駄菓子屋の店頭や遊園地などにあって、お金を入 れてダイヤルを回すとゴロンとプラスチックの卵のようなものが出てくる。この中に様々なアイテムが入っているわけです。かつては文具だったり、おもちゃの 指輪、ガム、知恵の輪などでしたが、やがてキャラクターグッズやミニカー、リアルな動物フィギュアが増えて来ます。似たようなものにカラフルな銀紙に包ま れたチョコの内側にプラスチックの卵型容器が入っていて、開けると色々なアイテムが入っているという、キンダーサプライズとかチョコエッグ、チョコQ等も あります。
本来、何が入っているのかな?というドキドキと、これは何だろう、あ、そういうことかと理解する、という喜びだったので、他にどんなものがあるのかわから ないという、謎も楽しみだった。それがだんだん、こういうシリーズですよという写真付きの紙が封入されていたり、貼ってあったりする。すると「収集癖」が 刺激され、全部揃えたくなる。飾る楽しみ、持っているという所有欲、他の人はあまり揃えられていないという優越感、中にはネット上で写真を披露して自慢す る人もいるでしょう。こうしてシリーズ化したものを揃えたいという欲求が「創られ」ます。
アメリカの「Spawn 」ブリスター・フィギュアの革新(一時期集めました)か ら日本の小型おもちゃ造形も飛躍的に進歩して、今ではコンビニの食玩や缶コーヒーに付属した筒型容器、このガシャポンでも精妙な仕上がりのフィギュアや根 付けが展開されています。ユーモアのある造形、猫に被せるかぶりもの、などなど。ところが販売のおじさんと話をしてみると、そこにあるケースの中でコンプ リートできるとは限らないという。同じものが2回出てきてしまったり、目当てのものはなかったり。すると「ギャンブル性」というものが出てきます。
そしてたまごっち方式で、揃えてあるぞとオークションに出品されて競い合い高額になる。それを高値で買ったことで、所有欲は満たされるがある意味「ズル」 なのでギャンブルでは負けたことになるのだが。この中で、子供が欲しがるアイテムがあり、たまごっち方式で数が少なく中々出てこない。すると子どもは何回 もやってお小遣いを使い果たし、欲しくないものがたくさん手元に残る。かつての仮面ライダースナックのカードみたいなことに。
そこでお金に余裕のあるお年寄りがネットなどで何万円もかけてゲットして孫にこれがあるから遊びにおいで、ということになるのだそうだ。つまり遠くにいる おじいちゃんが孫の顔を見たいが中々きてくれないので、喉から手が出るほど欲しがっているガシャポンを法外な値段で入手して、それを目当てに遊びにきても らうわけですね。これって正常?
出品してる人誰?
このように新たに色々なストレスを産み出してそれを解決するためのお金で儲ける、という手法。これに踊らされるのって寂しくない?
 例えば手の込んだ食べ物で1日にこれだけしか作れまへん、という手作りのお店、行列になって、結局完売でたべられないひともでる。こいうのは仕方ないで しょう。品質が低くなって大量に作るよりも、作り手が納得いくものを丁寧に作っているから数に限界がある、ということ。これは工場で大量生産できているの に出荷を制限して「インチキの希少性という付加価値」を作るのとは違うのだから。つまり何のためにやってるの?という原点が問われる。自分が工夫したこ と、努力を重ねたことをお客さんが理解して評価して、喜んでくれる。その対価としてお金をもらい、生活する。農作物でも、建物でも、演劇でも、漫画でも、 音楽でも!それを、イライラさせる元を作って儲けようというのはどうかな・・。
  話は戻ります。ゲームの世界でゾンビやモンスターを殺しまくる、時には一般人も。この逆の状態を表示したらどうでしょう。モニターの中に自分が選んだ キャラクターがこちらに銃を向けて発砲する、私の胸に穴が開いて血が飛び散る、または大きな剣で切りつけてきて私の腕が切り落とされる、お腹から内臓が出 てしまう。あなたはこういうことをして楽しんでいるんですよ、と認識できる逆の視点。やられる側の立場が想像できるようにするゲーム。もちろん売れないで しょう。爽快なストレス解消にはならないでしょう。
でも、戦争で、どう?無人攻撃機を飛ばして、離れた基地や戦艦の中でビデオゲームのように画面を見て爆撃。もし撃ち落とされてもこちらは生きている。しかし病院を誤爆して民間人やお医者さんがたくさん死んだら生き返りません。
 誰が償うの?どうやって償うの?

・・・・終戦を機にいろいろ「病んでる」な、と思うことに触れるのも能勢流で、私がテニアン島など南太平洋で見たり、現地の人から伝え聞いたスーサイドク リフの出来事や原爆ピットといった実際に見たなまなましい傷跡と関連づけて掘り下げたいのです。一見無関係のように思える事象は実は同じような構造を持っ ているかもしれないとも思えます。

 戦争自体が「ストレスを作り出して、それを解決するためにお金を払わせる商売」の手法じゃないのかな?と感じるからです。

 この続きはまた後日・・・。

家からは近いけれどあまり人の来ない清流の脇で、戦時中と同じせみの鳴き声、水の音を聞きながら書きました。お昼には正座して般若心経を唱え、各地で散って行った未曾有の命の冥福を祈りました。

  2018年8月15日  記

Glückliches Neues Jahr! 謹賀新年2018年

Glückliches Neues Jahr! 

 

    2018年1月14日 記

皆さま今年もよろしくお願いします。

本年の目標は・・もちろん引き続き全身全霊で音楽の結晶化に取り組むことに変わりありませんが、「不屈の精神、鋼の心臓」を座右の銘とします。

雑 事、雑音にダメージを受けず、作品に集中する。自分はいわば一種の楽僧、修行僧のようなものですから、精神の汚濁から身を遠ざけて粛々と音の真理を探求、 純化して成果をまとめることに精進すること。これが音の表現によって社会に還元していくには重要。ライフワークを達成する唯一の道なのでしょう。

 

さて、暮れから正月まで、非常に忙しくしておりました。どこのおうちもそうですよね。

私の場合ちょっと特殊なのは、お年始のあいさつとして新曲を作り、年賀状に楽譜をプリントして送るというのをやっています。そしてホームページで「あること」をするとその曲を聴けるという仕組みを作っておき、方法を書いておくわけです。

ライブもCDも間隔が開いてしまっているので、今私の音楽はこういう方向になってますというSheet Music Postcard なのです。海外の友人にはメールに添付して送信します。

いただく年賀状にも「次のCDはいつ?」「ライブの時は知らせて」というお声を頂いているので、近況報告として重要なものなのです。

  また、この年賀曲シリーズはCDには収録してませんしライブでもやらないので、私と年賀状をやりとりしている人間だけが聴けるという「エクスクルーシヴ」 チューンなわけで、応援してくださる方への特典という意味もあるのです。いつかは年賀曲集としてCD化するか、アップロードするとは思いますが。

忘れ去られてしまわないように、作品の進化をセルフレポートしているのですね。

未来的には楽譜ではなくQRコードの画像などをプリントして、スマホをかざすと音が出る、となるかもしれませんが、現時点ではアナログです。

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 また毎年末「こん詰める」たびに火事場のバカぢからというか「ゾーン」(笑)に入って、新たな表現獲得するのです。(ちなみに昨年のバトミントン奥原選手には非常に強く感銘を受けました。) 過去のお年始曲を聞き直すと確かに次の段階へのステップアップになっているのです。

 

 今回もこの15㎝×10㎝ という範囲に入る楽譜にまとめるのが一番の難関で、研究中のたくさんのことから、どれを主体にして何を省略するか、挑みました。

主体とした「無伴奏でも感じ取れる遠隔調への新しい転調方法」は昨年の手法を深めるという事で、ここに半音階旋律と跳躍を組み合わせる方法、ハーフディミニッシュ前後の新しい連結、少ない跳躍で和音進行を感じさせる方法、オルゲンプンクト(保続音)でクロマティック進行やエンハーモニック転調、部分無調性、単旋律擬似2声などを少しずつ残し、切ったり、組み替えたり、調を変えたり、と実験を繰り返しました。かつ曲として新鮮さ、楽しげな生命力も出すのをおろそかにしないように。

  いつも短い曲の中で工夫を凝らすということではシューベルトの「Heidenröslein( 野ばら)」が心の中にあります。はじめに提示した主題が2回目にエキゾチックに変化して・・・詳しくは次回書きます。

    毎年12月中旬からこれに向けて徹夜続きでヘトヘトになります。しかも楽譜のスペースは、縁取りに若干の装飾、挨拶の言葉のマージンも空けますから、実際は14㎝×8㎝ぐらいになります。長い曲にしてしまうと縮小して読めないぐらい細かいものになってしまうし、プリンターの解像度を越えてしまいつぶれ気味になってしまう。

和声に興味があるのでピアノの2段譜で記したいところですが、小節数が半分になってしまう。そこでジャズでよく使う「リードシート」式、つまりメロディーを5線譜に書いて、上にコードネームを添えておくという方法を使う場合が多いです。

 ところが私の設定した和音をきちんと記すと、例えばB7♭13#11/A♭、E♭aug△9/G、というテンション表記になってしまい、相当ジャズをやった人間でなければ弾けませんし、音楽大学出身者でも無理でしょう。

  興味がもっとポリフォニックなものになると、これだけでは表しきれませんから、音符の棒を逆方向にして2パートを書き込むべきですが、見づらくなるし、果たしてこれを見て弾く人がいるのだろうか、ということになっては無意味です。

ここが悩みの種なのです。海外のグリーティングカードぐらいのサイズなら、まだ自由度があるのですが。そこで和音自体のテンションは少ないが転回形、分数コードを連結する事でシンプルにする方法を編み出しました。

しかし困ったことに、印刷する段階でプリンターが不具合を起こす(かのEpson)。高いインクを買って交換して、テストプリントしてヘッダー調整してまたテストプリントして、やっと刷れんのかというところで「◯色のインクが少なくなりました、交換してください」だって。この繰り返し。今まで2台使ってきましたが同様。しかも黒に2種類あるうちの片方フォトブラックだったり、色ですらないグロスオプティマイザー(透明コーティング、不要なのに!)だったりする。ふざけんな、2度とエプソンは買わない!この作業で今までどれだけ睡眠時間とインク代を失ったか。

 結局以前ギターを教えていた方が買い換えるのでと寄付してくださった、古いCanonのプリンターを使わせて頂いています。ネットで対応の安いインクを入手して。

それでもドライバーソフトが現行OSのものがないので、工夫して、と風前の灯火。本来はレーザープリンターが必要なのでしょう。レッスン時の資料やコンサート時に渡すパート譜も綺麗にプリントできるし滲まず、CDジャケットも教則本も再販が希望されているギターノートも作れるはずです。

  ソフトも以前使っていたイラストレーターが、今のOSでは動きませんが、買い直そうとしてもフォトショやウィーバーなど全部セットのものを買わなきゃいけなくなっていて「法外な値段」。ほんと、あこぎな商売しますね。だから無料ソフトをダウンロードして使うわけですが、代表的なGimpはテキストツールで日本語が使えないときている。

それで他にレイヤーが使えて日本語テキスト入力のできる描画無料ソフトを探し、結局マンガ原稿用のものをダウンロードしてやってみました。

・・・と全てがブレーキベクトルで、私のクリエイティヴな活動を止めにかかってくるわけですが、精神力と睡眠削減で乗り越えるわけです。まあお金があればもう少し楽なんですが。

 事務所に属していませんから、プロモーションとしても、ある音楽家が生きた記録としても、この年賀状新曲は一大イベントで取り組みます。まあ極真空手の寒稽古のようなものです。

  かといってあまり、教条主義的に、完璧主義、強迫観念的になりすぎないように気をつけたほうがいいのかもしれません。(いや、すでになってんじゃないのってわけですが)

 

 ということでお年始曲作曲、年賀状プリント、音源のアップロード、あて名とコメント書いてから発送、と七転八倒し、1枚のハガキにしか見えないかもしれませんが、膨大なエネルギーが詰められているのです。これがひと段落してやっと私の1年が始まります。

 

★他には、ドイツの親戚に、ウィーンの音楽家とやりとりしているメールを添削してもらったりして、やはり日本のドイツ語教本の信用しすぎに注意しないといけないなと勉強になりました。

 

★あと、久しぶりに地元の同級生とセッションしました。

小・中学の同級で、高校時代は一緒にバンドもやったギターの友人ですが、当時私はヴォーカルでした。ゆったりできる広さにギター、アップライトピアノもある羨ましい環境で、今回は私がピアノを弾き、彼がギターを弾きながら歌ったりしました。あくまで遊びですが、こういうドメスティックな環境での小編成でもハーモニーを高めていけば良いアンサンブルになるはずです。日本ではあまり行われないでしょう。カラオケが日本の生音楽を殺したと言ってもいいですね。

各地のピアノ教室の先生がコードの読み方やさまざまな伴奏パターンを教えるだけで状況は激変すると思いますが、やらないですね・・・。題材にすべき日本の歌曲がないというのも原因ですね。アメリカならカントリーやフォスターの歌曲、フォークリバイバル以降のフォーク、カーペンターズやバカラックなどのポップス、1900年代初頭からのミュージカルや映画の曲などがあるし、イギリスならブリティッシュ・トラッド、もちろんビートルズ、ケルト民謡、スキッフル、ダスティ・スプリングフィールドらのヒット曲、フランスならシャンソンやルグランの映画主題曲、イタリアならカンツォーネ、ブラジルならサンバ・カンソン、サンバ、ボサノバ、ロマンチカ、MPBなど。つまり電気楽器やドラムが無くても国民の多くが口ずさめる曲ですね。そうしたものは家庭や酒場、パーティー、学校の放課後等でピアノやアコーディオン、ギターの伴奏で歌われてきた。年代を問わず浸透しています。これが日本にはないのですね。

この問題はまた別の機会に詳しく書きます。

 

★さて、昨年は私のライフワークでもある音楽と自然について、バランス的に植物の性質と近づけました。学生時代から常に絡めながら活動してきましたが、恒常的に管理しながらというのが難しいのです。現在はハーブが寒さに弱いので家の中に入れて簡易ビニールハウス的にして、夜は不織布をかけています。東京ですが家の中でも0度になりますので。果たして春になって復活してくるか・・?

    このテーマというのは入れ子をひとつ外に行くと「芸術表現と宇宙」ともいえます。弦の振動は空気を震わせ、聴くものの鼓膜を通して耳小骨を揺らし、リンパ液の中の細胞が電気信号として蝸牛神経に伝達され、脳に感情の変化を引き起こします。時には鼓動や血流の変化をもたらし、健康に影響を及ぼすこともあります。これは食べ物が体内に入り、エネルギーになると同時に筋肉細胞や骨、神経細胞の材料となることに似ています。汚染されたものを多く摂取すれば、新陳代謝に寄って汚染された肉体に傾き、汚染された精神を生み出し、悪循環を招くことと似ています。

つまり良い振動を伝えるには私が汚染されていない状態でいる必要があります。シューベルトやバッハ、ショパンなど素晴らしい作曲家の作品が今も心に響くのは、こういうことが関係していると思います。Devotionですね。

 これが私が精神を磨き、筋トレをして、語学の努力、自然へ耳を傾ける理由でもあります。

ただし、時間がかかります。その分、成果があがるまでお金もかかります。

鍛錬、集中、積み重ね、あるのみです。

 

具体的には、今年は★鍵盤の習得にもっとエネルギーを注ぎ、★ギターは前回書いたような変速ハープチューニングの活用、★クラシック音楽の専門書の勉強(前回書いたような古代脚韻ーメトゥルムーダクテュロス ,アナパイストス,イアンボスなどがどのように旋律に反映されてきたのか、対位法の元になった定旋律はどこからきたのか、近代以降Olivier Messiaenのmodes of limited transpositionを使った和声法、チェレプニンの9音音階,LevyのNegative Harmonyなど) を深めつつ、★木管楽器のジャズ的室内楽の作曲と実現に結実させる。これが目標。

 

 長いスパンのものなのでそれほど昨年と変わりはしませんが、資料を国立図書館から取り寄せたりネットから翻訳したりするようになってきました。買うとお金がかかりすぎるからです。ただし届くまで時間がかかるのが難点で、持ち帰れない場合も多い。音楽大学の資料室も使えればと思います。ドイツ語で原書を読めるようになるともっと加速できるのですが・・・。

そして発表にはインターネットの活用も促進しようと思います。

  さらに他にも竹の弦楽器の完成、ハーブからの精油抽出、庭の収納の修理、11弦ギターを修理して練習、ロングネック・ギターの再活用、録音システムの効率化、3rdCDの完成、語学の強化(ポルトガル語、イタリア語も)、録画してある各分野の講座の勉強、ヴォイストレーニング、5弦フレットレスベースを再活用してギターとの新しいアンサンブル法、サックスの練習し直し、教則本の完成と販売、ヒグラシ録音の編集とCD化、インターネットラジオ録音物のライブラリー化、不要物のオークション出品など整理、4月には自動車の車検、HDDデータの重複を解消してデフラグし、どの端末からでもアクセスできるようにする、テレビの録画DVDに焼いてHDD容量を空けられるシステム作り、レーザープリンターを導入、オリジナルギターノートを増刷して販売、ゴダンのGR信号でVP-9000を使った表現、などなどやるべきこと、なさねばならぬこと、なんとかせねばならないこと、なせばなること、やれば道が開けること!など沢山あります。

でも1番の優先事項は良い作品を作って、インターネットで発表することです。

「不屈の精神、鋼の心臓」です。

それでは皆皆の者、お互いコツコツ頑張りまっしょー。

 

Schönen Jahr noch. Bis bald !

 

              2018年1月14日 記

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大晦日!

★大晦日だす!ぐは。    

        2017年12月31日  記

今年もあっという間でしたね。

この間までセミの鳴き声の中タンクトップで汗だくになって竹を加工したり、虫さされ対策でハーブを育てて成分を抽出したりしていたのに。

なんか今年は急激に寒くなった感じ。そして雨も多かったので、あまり青空の下で秋を満喫することが出来なかったように思います。

でも晴れた日はとっても空気がおいしいです。

 

★さて更新がだいぶ久しぶりになりました。

主に通信環境の変化でいろいろエネルギーを使う必要があったのと、もらい事故で車の修理に1ヶ月以上というのがとどこおった原因です。あと各種保険の見直し。

 メインで契約しているDion( 現au One net )がホームページ公開サービスを10月いっぱいで終了、というので、徐々にこのJimdoサービスに移行していたのですが、完全に移りました。

そ のためもともとアップロードしていた膨大なコンテンツを自分のMacにダウンロードする必要があったのですが、FTPソフトで作業していた古い Mac(G4)が起動しなくなってしまい、さまざまなパスワードがわからなくなってしまいました。そこでau One netに問い合わせて本人証明して郵送で送ってもらったり、これが種類に寄って別便になったり、かなり手間がかかりました。

そのコンテンツをJimdoに移植しようとしたら、今度はJimdoがログイン方式を変えてきた、という感じで手間取りました。

  また、20年ほど使って来たPHS(携帯電話)、運営はウィルコムから現Yahooモバイルになっていたわけですが、ブラウザーを一切使っていないのに請 求が極端に高くなる月が時々あって、あまりに信用出来ないので解約しました。問い合わせても誠実さが無く、「Yahooモバイル以外」でiPhoneに変 える計画を遂行したのです。驚いたことにこんなに長期継続していたのに、やめると損になるという要素が無かった。まあ、ひどい会社ですね。正式キャリア (通信会社)の劣化版なんですね。みなさんお気をつけあそばせ。

 熟考の結果、出先で調べものやメモが出来て、録音も出来て、デジカメが今 手元になく(理由は以前書きました)写真や動画を手早く撮影出来て、自動車運転中に道に迷った時地図として使えたり、渋滞を回避する役にも立ち、レッスン 時に伴奏音源を鳴らすことも出来るし、自分の作品を聞かせることも出来るし、PHSサービス自体が削減されていくことになっている風前の灯ということ等か んがみて、さすがにスマートフォンが必要になってくると判断しました。(その他アドレス帳や目覚まし時計代わりにもなっています。電話は5分まで無料。)

音楽作品を世界に発信するためにも必要な機材と判断して、Yモバは解約でキャリアもので契約しました。

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以前の分はこちらから→ヒグラシジャーナル