旧バージョンの過去コラムです。

このHeal-jamは2000年からやっています。まだネットが常時接続になっていない時代からです。さすがに一般の方の接続状況や通信速度、ブラウザに対する知識やプラグインも変化してきましたので、現在Jimdoというサービスを試しつつリニューアル中です。

 トップページには専門の音楽以外に時事問題やアイディアの提示等して参りました。 安易な掲示板や匿名のブログとは違い、極力勉強して書いてきましたので、終戦記念日の学びなおし各シリーズや、原発問題等、重要なものはここに再録しようと思いました。

 現在進行中のトップページコメントやコラムとも関係する内容を中心に以下、再録しておきます。 もとの日時を参考にお読み頂ければ幸いです。


終戦記念日に想う
   その1 ~開戦からミッドウェー敗退まで~

                 2011年8月17日 記

★8月15日は終戦記念日でした。みなさんどう過ごされましたか?
わたしはお昼に黙祷してから、近くにある悲願寺にお参りしました。
うろ覚えになってしまっていた般若心経を紙に書き出して持っていって唱えました。
毎年この日の前後に戦争について考えます。 戦死者300万人そしてほとんどが餓死者。
日本はなぜ太平洋戦争を避けられなかったのか? どのような戦いだったのか?
今年も本や映像などで勉強しているところです。
近年膨大な量の生々しい音声テープやかつて極秘扱いされていた議事録があきらかになり、軍部の内での争い、利権がらみのおぞましいたくらみ、無能な首脳 陣、隠蔽工作などの様子がとりあげられるようになってきました。何か原発利権に絡む今の政治にそっくりです。
 今回は学んだことを2回にわたってまとめたいと思います。まず「開戦からミッドウェー敗退」まで。
次回は「ガダルカナル戦から終戦の遅れ」です。

  私はもちろん原子力発電は反対ですが、たんに放射能が怖いとか感情論だけではなく、どういう危険があるのか、メリットとデメリットは何で、隠された事実は 何かを知る必要があります。それについて勉強した結果、いろいろなことがわかってみなさんに知らせなくてはと前々回まで書いてきました。原発利権のために わざわざ火力水力をとめていることや、従来より効率の良いガスコンバインド・サイクルなど一般の人は知らされていないからです。やがて実際に九州電力のや らせメール問題、保安院のやらせ質問、電力会社から国会議員への不正献金が発覚しニュースになってきました。
 かつて第五福竜丸が水爆実験にさらされた事件で原爆水爆に対して国中で反対デモが行われる中、正力松太郎が「アメリカの世論操作作戦のもとにメディアを あやつり」原子力発電がスタートしたのだということをもっと知る必要があります。つまり国会議員、新聞テレビは原発推進の道具だったのですね。今回も唯一 の被爆国でありながら原発事故の被害を生み出していることについて言及や報道がほとんどありませんでした。追悼式典の様子も一部しか放映されませんでし た。あきらかに規制されているのですね。

 こうした巧妙な大きな力に知らないうちに一般市民は操られているわけですが、原発と同様に、戦争に反対する以上、戦争とは何なのか、不可避なのか、知る必要があると思っているのです。
 でも私は歴史は昔からちょっと苦手な科目で、義務的に教科書を覚えるぐらいしかできませんでした。まあ教科書が良くないのが一番の理由です。日本ではい ちいち年号が変わって通した数字じゃないから、長さの比較もしにくいしどっちが先かも覚えきれない。何より海外の西暦と併記していないので、地球単位での 進行がイメージできない。だれそれが何年に何をした。なにのなにすけが何年に即位したという文章がただ羅列してある。その「誰のなにすけ」を知らないから 感情移入も出来ないし、どういう人物か説明も無く、おこなったことが当時の背景上、すごいことだったのか必然だったのか、希有な努力の末なのかどうか・・ わからない。あくびが出る。
 一つの文章中に歴史用語が多く、まずその用語の説明がなくてはいけないが、いちいち別の項目を見なければならない。あっちを見たりこっちを見たり。だか らまず現代の言葉で、知識が無い人が理解できるように書くべきだ。それからそれを歴史用語で言うとこうなるという手順が必要です。
 例えば、ギター初心者に「パラレルキーに行く際にツーファイヴでサブスティチューテッド・コードを使い、解決したのちにペダルトーン上でダブルドミナン トを経てレイズド・ナインスなどのオルタードテンションを擁するドミナントを用いてトニックに戻る。」といってもちんぷんかんぷんでしょう。まずパラレル キーの説明を見て、それからツーファイヴを調べて・・・。いちいちその前提を理解しなくてはいけない。だが、用語を調べる中に別の言葉が出てきて、調べる ことが入れ子式になってくる。だから耳で理解できるよう実技を合わせて前の段階をやっておく必要があります。
 それと同じ。自分の知らない人物が知らない時代に何か書き記したとか、決めごとを作ったとか、誰を負かしたとかいっても、そう?それで?。って感じ。想 像できないんですよ。 せいぜい織田信長とか坂本龍馬とか聞いたことある、とかドラマ見たことあるということがきっかけになるかという程度です。このようにテキストに魅力がない のは教える側が本気じゃないんですね。かつて子ども人口が多く生徒がたくさんいた時代にふるいにかけるために、必要最低限の情報を羅列して、覚えられなけ れば失格、という方式でやっていた。自分たちの国がどういう積み重ね出来てるか理解しようよって情熱がゼロ。  当然母国を愛する心なんて育たない。そうして頭が良く、世渡り上手な一部の連中が東大を経て政治家になったり、電力会社に入ったり 大企業で汚職をした り、私腹のために暗躍するようになっちゃったわけです。結果歴史を勉強する意義の本末転倒になっちゃう。むしろ新しい負の歴史を作っちゃう。
 ほんとうの歴史、人間が積み上げてきた出来事、業績や過ちを、イマジネーションや同情や怒りや感動や誇りや後悔を持って振り返り、吸収することが大切。それによって同じ過ちをくり返さない。
やはり「概論」という大きな流れをつかんだ上で「各論」というディティールに入るべきでしょう。
 また、教科書が悪くても情熱を持って教えてくれる先生がいれば違ったかも知れませんが、残念ながらそういう人はいなかった。 それで自分が先生になろうと思ったわけです。美術ですが。手作りの教材や心の問題を表現したり自然素材を使ったり工夫しました。 そして今は音楽を教えているわけです。日本にはよいテキストがない。特にギターや理論に関しては。これは歴史と同じです。だから実地にフレーズを弾いて見 せたり、スローに分解して指の動きを確認してもらったり工夫しています。

----------------

さて戦争の話に戻りますが、太平洋戦争(日本は大東亜戦争と呼んでいた)が起きる頃、各国はどういう状態だったかを知っておく必要がありましょう。
 日本は中国と戦争している最中でした。日中戦争ですが、アメリカが中立政策に入ると困るため戦争ではなく「志那事変(しなじへん)」と呼んでいました。
 ヨーロッパでは1939年にナチスドイツが英仏と戦争状態になり第二次世界大戦になった。
 フランスは翌1940年6月、ドイツに負けてしまった。
 同盟国を失ったイギリスはなんとかアメリカを参戦させたかった。チャーチル首相はいろんな策を巡らす。
 アメリカは19世紀初頭から海外問題には関わらないと いう孤立主義(モンロー・ドクトリン)をとっており、ルーズベルト大統領は「決して皆さんの息子さんを外国の戦争に送ることはしません」と選挙で訴えて3 期目の当選を果たした。世論も第二次世界大戦が勃発した後も海外派兵を拒絶していた。(今とは大きく違いますね)
 ソ連はロシア革命によって連邦になったばかりで、荒廃 した国内を再建途上。それでスターリンは国力を温存するため日本と直接敵対するのを避けていた。日本と敵対していた中国の国民党に軍事援助をする形をとっ ていたのだ。しかし日本が統括した満州国とソ連保護下のモンゴルとのあいまいな境のノモンハンで国境争いが起きた。これには兵力を投入し、国境を保持し た。これが沈静化し「日ソ中立条約」を結んだところ。 それでもフランスを倒したドイツがソ連にしかけてくるおそれがあった。シベリア鉄道は満州国との国境に沿っていて、日本が少しでも北に進出してくると輸送 がたたれてしまう。そこで日本が南の英米仏領に進出するのを期待し、工作員を暗躍させていた。
 中国はそれまで内戦で戦っていた中国共産党の毛沢東と 国民政府の蒋介石、汪兆銘が協力して日本に抗戦した。蒋介石は国土が広いのを利用して奥地に引き込み、長期化させ、3年ほど負け気味でいればアメリカやソ 連が参戦してくるはずという作戦だった。その通り甘く見ていた日本軍はずるずると泥沼化した戦闘を続けていた。そして中国のもくろみ通りアメリカの参戦と いう事態になる。
 ということで、大筋では1937年に日中戦争が起こり、英米ソが中国を支援したところが始まりのようです。日本が中 国を侵略するのをよしとしなかった。その中で日本がフランス領インドシナ(現ベトナム)へ侵攻する。英米ソが中国へ支援する輸送路の遮断が主な目的だった ようだ。  しかしこれによってイギリス領のシンガポールと香港、アメリカ領のフィリピンという3カ所を脅かす状態になり、英米を敵として参戦させてしまったのだ。
 アメリカは当初外交で解決しようとしていたが、好戦的な日本の態度を見て無理と思い、石油の輸出をとめ、日本に「ハル・ノート」を突きつけた。 これは日本が了承することが出来ない条件を羅列した厳しい内容のもの。そうして戦争に向かった。

もう少しだけ細部を見てみましょう。

1941年4月 アメリカに知人の多い海軍大将、野村吉三郎が在米大使に任命され、コーデル・ハル国務長官に非公式での交渉を続けた。「日米了解案」といういい形が出来つつあった。
 ところが松岡洋右(ようすけ)というパカちんがもっと強硬な交渉を、とあらたな協定案を提示した。ハルに渡したとたん、状況は悪化した。松岡はナチスド イツ、イタリアと三国同盟を締結した外相。つまりアメリカから敵と見なされる要素を振りまいたわけだ。
1941年7月 日本がフランス領インドシナ(現ベトナム)に進駐したので、アメリカは姿勢を硬化させた。シンガポールやインドネシアに進出する足がかり と判断したわけですね。フランス領インドシナ進駐を中止する事を要求し、アメリカにある日本の資産を凍結。石油の輸出ストップ。 当時の首相近衛文麿(このえふみまろ)は松岡を更迭し、外交で解決しようとアメリカに首脳会談を要望した。だがアメリカは中国とフランス領インドシナから 全面撤退し、三国同盟を無効にしないかぎり、首脳会談には応じないというかたくなで厳しい要求をしてきた。 近衛内閣は総辞職します。

1941年10月 そうして強硬派の陸軍大臣、東条英機が首相になってしまったのだ。 開戦を決めたのは大本営政府連絡会議。
首相 東条英機。海軍大臣 嶋田繁太郎。企画院総裁 鈴木貞一。
軍令部総長 永野修身。陸軍参謀総長 杉山 元。
といった面々。
 開戦時、アメリカとの国力差は国民総生産12倍、鋼材17倍、自動車保有台数160倍、石油721倍とわかっていました。子ども用の冊子にも記されていた。ではなぜアメリカに宣戦布告したのでしょうか?
 日露戦争(1904~05年)はその時より35年前。1対10の国力差がある大国ロシアに勝てたのだからアメリカにも勝てるのだという精神論がありました。妄想に洗脳ですね。
 また、天皇も軍の参謀もちょうど幼少期に日露戦争の凱旋、英雄談や絵本を見て育った世代。事実やデータよりも楽観視したのでしょう。
 実は日本は日米開戦から20年も前に中国をめぐってアメリカと経済的に対立すると予見してた。「定刻国防方針」を改訂し第3条で書かれている。奇しくも同時期、アメリカも対日作戦計画「オレンジ・プラン」を採択しています。
 そして、財政の準備はできているつもりになっていた。軍事予算を特別会計256億円(今の価値に換算で20兆円)で陸海軍が使う自由を得ている。そのう ち3割を当面の日中戦争に、7割は陸軍は対ソ、海軍は対米にとっておいた。  それで短期決戦ならアメリカをねじ伏せられると予想したのだ。妄想って怖いね。初戦がどうあれ、どんどん兵器を増産して長期になるのは確実なのに。
 しかも海軍の重鎮、山本五十六(いそろく)が奇襲作戦が成功すれば1年半はもつと提案した。
そのあいだに講話に持ち込むつもりだったようだが、どう考えても長期化する。するとどうするか、どうやって集結に持ち込むかは考えていない。国としてのビジョンもなかったんですね。
  大本営連絡会議では「ハル・ノート」は承諾できんということに。内容はフランス領インドシナだけでなく中国からの撤兵、中国利権の放棄、ドイツとの同盟破棄など。
ソ連の工作員がアメリカ人にはたらきかけて日米を敵対させたという説もあります。財務省のハリー・ホワイトに接触し、対日交渉で強行に出ることが最善と信じ込ませた。ホワイトは「ハル・ノート」の原案を書いた。
こうして各国の思惑に乗せられて日本はアメリカと開戦する。
11月の御前会議で開戦が決まった。天皇がゴーサイン出してしまった。そして12月8日に開戦。ハワイのオアフ島パールハーバー基地を攻撃した。つまり真珠湾攻撃です。


----------------

 真珠湾攻撃は一般的には大成功のように言われていますが、よく調べてみると、いまいちの所もある。
 まず、ラジオのホノルル放送を誘導電波代わりにオアフ島に向かったが、アメリカ機B-17編隊を誘導する役目を担っていた。それでレーダーにとらえられたにもかかわらずアメリカ軍はB-17編隊と間違えて空襲警報を発動しなかった。これは偶然。
 次に、第1波攻撃隊の淵田中佐は「奇襲」をあらわす信号弾を撃ったが、ゼロ戦隊が気づかなかったため、もう一度信号弾を撃った。すると一発目に気づいて いた艦爆隊長の高橋少佐は2発の「強襲」の合図と思い急降下爆撃を始めた。 2発目で気づいたゼロ戦隊は「奇襲」のつもりで魚雷攻撃スタートということで低空飛行。それで同時につぎつぎ3次元的な急襲になった。これも偶然。
 さらに、第2次攻撃が予定されていたが、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将が目的を達したと判断し、帰還命令を出してしまった。 重油などをストックした巨大燃料貯施設、船舶修理施設のドックも無傷のままにしてしまった。これによって米軍はすぐ立て直して反撃出来るようになってしまったのだ。
なにより、後に苦しめられるアメリカ軍空母がいなかったので撃沈できなかった。

 もうひとつ重要な要素は「宣戦布告より前に攻撃した」と いう点。ここはいつも論点になるとこです。KKベストセラーズ社「歴史人」9月号によれば、前日から宣戦布告を打電したが在米大使館員の不手際によって遅 れたようだ。全14部からなる宣戦布告文のうち13部までは前日に受信され暗号解読済みだった。最後の1部は当日早朝に受信され、アメリカに13時に渡す よう厳密な時間指定の別電も届いていた。
 ところが前日土曜日夜に転勤者の送別会が催され、日本の書記長らがパーティー気分が抜けないまま日曜出勤した。これによって前日の13部もタイプ清書さ れていなかったうえ、肝心な第14部がまだ解読されていなかった。バカっ。手渡す時間指定が届いていただろが。しかも13部を読めば開戦に関わる超重要文 書であることがわかるだろが。それで一等書記官がおぼつかない手つきで英語タイピングし、野村吉三郎大使がやっとハルに渡したのは14時20分。1時間 20分も遅れた。攻撃が始まってすでに50分たっており、ハルは「これほど破廉恥な外交文書を受け取ったことはない」と憤激した。
 8割近くのアメリカ人は日本と戦争すべきではないと言っていたのに、これによって卑怯者、日本憎し、ということになり「リメンバー・パールハーバー」という標語になり、一致団結してしまった。
 一説ではアメリカ軍部は暗号は解読して奇襲が来ることを知っていたが、あえて対応しなかったという。犠牲は出るが、これによって日本は悪者になり、ルー ズベルトはモンロー・ドクトリンにしばられることなく参戦する大儀を得るからだ。 というわけで、偶然やミスも重なりほんとの奇襲成功とはいえないように思います。
 そしてこの瞬間、アメリカの参戦を待望していたイギリスのチャーチル首相は「勝った!」と確信したそうだ。「これでヒトラーもムッソリーニの運命も定まった。無限の力を生み出す巨大なボイラー米国にとうとう点火されたのだ」と。

----------------

戦況の変化ですが、おおざっぱに言ってはじめのうちは奇襲等の作戦でマレー、フィリピン、インドネシア、ビルマを手中に収めた。
ところが、図に乗って範囲を広げ、ミッドウェー海戦で負けたことで激変し、ガダルカナル、ニューギニア戦線、ラバウ ル、マリアナ沖海戦、レイテ決戦、すべて負け、補給物資はたたれ戦う以前に餓死、病死が続出、本土を空襲され、硫黄島の激戦、そして沖縄戦による時間稼 ぎ、ポツダム宣言をいつまでも受諾しない軍部のせいで広島と長崎への原爆投下とソ連の参戦を招き、終戦となる。

 もう少し詳しくみてみましょう。石油や鉄等の資源がない日本は、ボルネオの油田などいわゆる「南方資源」を確保することが重要だった。アメリカからの石油に頼っていたのが経済制裁でストップしたからです。ボルネオのタラカン油田では1日に4万バーレル出て日本の40倍あった。その他ボーキサイト、鉄、ニッケルなど。武器弾薬、造船、修理などに必要だった。
 それで陸軍は占領した地域を守り、基地建設し、本国に資源を送るのが大事。これによって戦争を終結させてもいいという方向だった。だが、海軍はもっと占 領区を広げ、アメリカ海軍を壊滅させるのが目標。 この方針を巡って大本営はいつまでも議論で平行線をたどり、その上の決定権は天皇しかない。だからこの時に天皇がよしなさい、まず資源を確保することを優 先しなさいと言えば良かったのだが、その能力がなかった。

42年2月9日 海軍は陸軍よりはるかに広く戦線を拡大しようとしていた。
決戦は東はハワイ、南はオーストラリア、西はセイロンまでを範囲とし、入手した資源と戦力をその戦線へ送り込んで戦うのだと。そこまでやって圧勝してはじ めて講和を導き出すという方針。 海軍省が作った開戦時の日米海軍戦力予測のグラフではアメリカがどんどん増強し、たちうちできなくなる。守っていてもひとたまりもない。だから相手の戦力 が整わないうちに打撃を与えて戦意を喪失させるという方針。
 ふ~何をとちくるってんだろね、どう考えてもアメリカが戦意を喪失するわきゃないでしょ、アメリカは国民総生産12倍、鋼材17倍、自動車保有台数 160倍、石油721倍なんだから。資源も兵器製造も兵士も無尽蔵のようにあるのだから。やっと油田を占領したぐらいの小さい島国に「戦意喪失」なん て・・どこから妄想が生まれるのかね。
真珠湾でも修理ドックと燃料を無傷のまま戻ってきたわけだし。おまけに占領した油田でもガソリンへの精製がきちんと出来ない。その技術がなかったのだ。戦後の実験ではアメリカが作ったガソリンとでは12%の性能差があった。
 もちろん陸軍は反対した。そのためには12個師団の兵と部隊の輸送に船150万トンが必要。国家経済が麻痺すると。
占領地を開発、建設、資源を内地へ送ること、基地を要塞化することが大事と主張。 つまり陸軍は資源は確保できたので守りに入るべきというのに対し、海軍は戦場を拡大しアメリカを倒すつもりだった。 この意見の食い違いがずっと続いた。
陸軍は陸軍で日中戦争(1937~45年)にケリをつけるためビルマの攻略をにらんでいた。
連絡会議にあげる書面の文言を練るに当たって、
海軍は「既得の戦果を拡張し英米の屈服を図る」
陸軍は「既得の戦果を確保し長期不戦体制を確立する」を主張した。
3月4日に折衷案で「既得の戦果を拡充し、長期不戦体制を整えつつ機を見て積極的方策を講ず」 になった。両方混ぜて文句が出ないようにしただけ。バカっ。 この課長たちの作ったおろかな文章が東条首相たちに吟味された。

 3月7日 連絡会議 東郷首相たちは意味が通らないと指摘したが、従わせる指導力がなかった。 ここが国策の分岐点だったのに。ここで海軍をいさめる力量が東郷になかったのだ。このまま天皇に上奏された。 天皇がこれではダメだと言えば良かったのだが、判断力はないからそのままとおってしまい、海軍の拡大路線を黙認した結果になった。方針のないうやむやなま ま陸軍も海軍も勝手に進めることになった。
 3月8日 海軍は独断でニューギニアに上陸。 陸軍も海軍も自分たちが想定したとおりに行かなかった場合どうするか、考えていなかった。 陸軍はここ海軍はここと占領した領地を割り当てた。つまり割り当ての領地から算出される資源はそっちの軍のもので独占する。分けてやんないよ~。ッてガキ のけんかかいッ。
海軍は船を走らせるのに膨大な燃料が必要。陸軍は中国との決着をつけるのに燃料が必要。とりあいですね。 8割を算出する地域は陸軍のものだった。それを海軍がねたんで確執が続いた。
こういうことを統括して配分する上部組織がなかった。これは国のシステムとして欠陥ですね。
さらにそこに利権がからみ、産業界、経済界が口出ししてきた。 なんて愚かなんだろう。
占領地経営の計画がなかった。つまり占領した領土をどう統括するのか予定を考えていなかった。 そこで急遽「大東亜共栄圏」という構想。

42年3月 首相官邸に大企業の経営者や経済界のリーダーが招集された。
大東亜建設審議会の議事録では、満州重工業の鮎川という総裁が「向かうから採って来た資源は対価を払わないでよい、タダで採る。支払いは100年先でもい いと思う。」などと言っている。戦いにも行っていない企業のハイエナ成金が。 中には露骨な搾取に躊躇する者もいたが、企画院総裁の鈴木貞一が 「日本のやっていることは欧米から見れば搾取かもしれないが、自分のやることに正義感を持ってやる場合は搾取ということにはならない。」 と言っている。
は?意味がわかりまへン。横柄な態度でくびになった松本りゅうみたいなのは昔から居るんだね。ビジネスチャンスということで早いもの勝ちとして企業に配分 した。そして南方に企業が続々と進出した。 480社。利権屋というのが現場にやってきてインチキ軍人、日本から来た企業、現地軍人が任せた会社が奪い合いになった。これらの混沌とした状況で、本土 にも戦場にも物資が届かない。船が不足。国内は鉄など物不足という状態になった。


★私が思うに海軍が、戦場を拡大するならどこに何がどのぐらい必要か、具体的なてだてを検証すべきだった。あちこちに拡大するならどの船がどこにいつ、ど のぐらいの燃料と弾薬、食料が必要。 それだけの試算を出来る人間がいなかったのだろうね。または居ても上の人間が押さえつけたのだろう。考えれば無理というのが証明されてしまうから。
加えて私が思うのは、戦闘して占領するのは好きだが、居座って統治するのは面倒くさいと思っていたのではないか。

42年6月5日 山本五十六の強引な作戦でミッドウェー攻略をはじめる。
 日本とアメリカ大陸のちょうど真ん中に当たる小さな島。火山島が沈下して環礁になった島で、イースタン島とサンド島の二つがメインでアメリカ軍が長い時 間かけて飛行場と基地を作ってあった。だが、 陸軍が考えていた守備範囲のはるか外側。海軍内部でも異論が出た。 米軍兵力も把握しきれていなく、作戦上の疑問がいくつも出たが山本の強引な命令で遂行された。さらにハワイ攻略も構想されていた。
 この作戦は、ミッドウェー島にある基地を攻撃するのと、奪還すべく現れるアメリカ艦隊を壊滅するのとふたつの目的があった。 2兎を追う者は1兎も得ず。もちろんアメリカ軍反撃で致命的損害が出た。
どうやら敵戦力を読みまちがえていた。これに加え空母は艦隊に対する装備と、地上を攻撃する装備は大きく違い、装備を換装しなくてはいけないらしいが、これに2時間もかかるという。はじめ艦隊向けの装備だったのを、ミッドウェー島基地が予想より規模が大きく、攻撃が必要なので換装する必要があると。なんと愚かな。しかも航空機が戻ってくるので艦上は空けなければいけない、そして米軍艦隊が予想より早く現れたため、またもとの装備に戻さなければいけなかった。これを空襲をうけるなかあたふたやっていたというのだ。こんな重要なことに、情報収集に力を入れていなかった。いっぽう不備からアメリカ軍に作戦は漏れていた。空母は赤城、加賀、蒼龍、飛龍、と4隻もいるのだから、艦隊向けと地上向けと分けることはできなかったのか?。
 それで日本が持つ主要な空母6隻のうちこの4隻が撃沈され、アメリカ艦隊を叩くどころか返り討ちにあったわけです。航空機280機を失い、死者2800名。これ以降の戦闘は兵力不足でどんどん負けるわけです。
っていうか強引に作戦決行した山本五十六「本人」は何してたの?主力艦隊であの戦艦大和、長門、陸奥も率いていたのに?まさか間に合いませんでしたとかいうんじゃないだろな。大震災時中国や京都に旅行に行っていた東電の清水や勝俣みたいに。あるいは、アイディアを出さないヤツは助けてやらないぞ~なんてふんぞり返っていたんじゃあるまいな(by泣きベソドラゴン)。

 ようは危機管理能力と先を読む力も低く、情報収集も軽んじていたんだね。今の原発対処と同じです。冷却用の予備電源をふたつと も津波に弱い地下に置いた。燃料も海からすぐのところに置いた。それらが津波にやられ、電源だ電源だとあわてて電源車を50台も呼びつけたが形状が違うの でつなぐことが出来なかったというお粗末さ。水素爆発は起きんのだね? はい起きませぬ、そのあとボン!これは他のも爆発するかも。ボン!ボン!ってなんてお幼稚な。とにかく冷やせ、海水だ、特殊車両だ、じょぼじょぼ~、あれ、漏れてるゾ、海に捨てちゃえ。っておまえら・・。扱えないんだったらやめにしなさい。

 ところでもし互角に戦ってミッドウェー基地を占領できたとしても日本本土からは、5500kmも離れており自給できないこの小島では補給が必要。その シーラインは常に脅かされるので負担になるし、逆に米軍にとってはハワイ基地がある限り、いつでも出撃でき体制も整えられる。だからそもそも作戦自体がお かしいのだ。
 やはり最初のハワイ奇襲で第2次攻撃をしないで、修理ドックや燃料施設を残してきたことがここでアキレスのかかととなった。

 しかしこの大きな敗北が国家の首脳部には伝わらなかった。 海軍が拡大策の破綻を隠蔽したから。 東条には内密に知らされた。だがこいつは首相のくせに「秘密は守ろう。海軍の避難は一切するな」と言った。バカっ。
本来なら、だからいわんこっちゃないとここで縮小して守備作戦を練り直さなきゃいけなかったのだ。そればかりか驚いたことにミッドウェー敗戦後も拡大方針 に変化はなかった。 作戦の敗戦分析も行わず、責任追及も行わず、空母を4隻も失ったのに、まだ戦線を拡張しようとしていた。 パかちん。
 生き残った兵士の証言ではミッドウェー敗北を伏せるため部隊は急遽ガダルカナル島へ送られ、武器も食料もないまま、2万人の死者を出した。
 ここにいたっても陸軍と海軍は協力せず、場当たり的な戦闘をくり返した。インパールでは死者7万2千人、 ニューギニア戦戦死者18万人。アッツ島では戦死率99%。 クソ上層部のせいで無駄死にしていった兵士たち、なんてことだ・・・。
戦死者の冥福をお祈りいたします。今だ放置されている各地の遺骨が収拾され成仏されますように。
ガーティー・・ガーティー・・パーラー・ガーティー・・パーラーサム・ガーティー、バーディー・スヴァーハー。
(般若心経もとの発音)

★続きは次回ですが、ここまででも指導者が戦争の全体プランを示せなかった、示しても従わせられなかったことがわかります。 リーダーの機能不全です。これが大きな敗因であり、犠牲者を増やした原因ということが分かりますね。

★さらに有事だというのに目先の利益を優先した。戦争のさなかなのに企業との癒着で儲けようとした。

★そして最悪の場合をどう設定し対処するのか、危機管理意識がなかった。

 ほんと現在の震災対応、原発対応の政治にそっくりですね。 これらがないまま戦争は拡大していった。 犠牲者は増え続けた。命令出していて戦後責任を追及されずのうのうと生き延びたのも居る。 ヘタすれば財閥で私腹を肥やしたり、高級官僚や警察で偉そうにふんぞり返った。That's いつもの Japan.
 それでは近いうちに続編「ガダルカナル戦から終戦の遅れ」をUPいたします。各地の餓死戦線、なぜポツダム宣言の受諾が遅れたのかなどです。
 平和なヒグラシジャーナルのコーナーも鳴き方の変化など更新予定です。

              2011年8月17日 記


★終戦記念日に想う その2

      2012年8月10~8月16日 

★8
月15日は終戦記念日でした。私は正午に黙祷いたしました。
オリンピックで盛り上がって終わって寝不足に夏バテなどでみなさんあまり意識してないようですが、悲惨な第2次世界大戦、太平洋戦争が終結し、玉音放送が流れた日です。
ポツダム宣言を受諾したのは8日14日で、船上で正式に調印 したのは9月2日です。(ロシアは北海道に攻めてきたり、シベリアで抑留を行 いました。)
 私は毎年、終戦記念日の前後は同時に戦争について考え、学び、コメントして いますが、今年は昨年の続きです。前回はこちらです。→ 終戦記念日に想うその1 ~開戦からミッドウェー敗退まで~

 
私は特に右寄りでも左寄りでもないです。まだまだ無知だから学ばなければと いうことと、知り得たことをみなさんにお伝えしたいということです。
ま た、音楽を作る人間として、ちまたの商業音楽があまりに軽く、精神的背景や 表現基盤が浅すぎてヘキエキしており、自分は恥ずかしくない土台を持ちたい と思いまして。
 そして、年月が経ってやっとあきらかになりつつこともあり、まだ知らない方に広報したいということもあります。あまりにも理不尽なことが多いし、悪 いやつが生き延びて私腹を肥やしているので。

★今回はミッドウェー海戦で「大敗」してから終戦まで。
 戦況はどんどん悪化しました。あいかわらず陸軍と海軍は方針が違うま ま。
すなわち戦場を拡大してアメリカ軍を戦意喪失させるのだ、という海軍。 南はオーストラリア、西はハワイ、北はアリューシャンまで範囲を広げるとい う。
いっぽう陸軍は占領した地域の資源をしっかり確保して、攻撃に備えて要塞化 し、長期不戦にもちこむという。中国大陸を目的にしているからです。 方針を決定すべき天皇はコントロールできなかった。
 それで海軍はやりたいように進めてしまいました。オーストラリア軍か ら奪ったラバウル基地近辺を拡大すべくガダルカナル島を日本のものにしよう として飛行場を作り始める。日本から数千キロも離れているのに。ところが愚 かなことに同時にニューギニアのポートモレスビーにも攻略しようとし、どちらも失敗です。二兎を追うものは一途も得ず。
ガダルカナル島に飛行場ができるのを見届けたとたん、アメリカ艦隊が攻撃し てきてあっというまにとられてしまいました。島にいたのはほとんどが飛行場 作りの技師だったという。(守っていなかったのか!?)
しかし海軍はここで 大変だと作戦を練り直さなかった。また取り返せる程度に思っていたようで す。山本五十六(やまもといそろく)は何考えてんの?取り戻そうとするが食料も弾薬もなく取り残 された兵士たちは熱帯の中、飢餓と病気に苦しみ「ガ島」は通称「餓島」と呼 ばれた。
 もういっぽうのポートモレスビーはニューギニアのオーストラリア側に ある港で、3度攻撃して失敗。(そんなに重要な拠点とは思えないのに) やはりジャングルに取り残された兵士は弾薬どころか食料も医療も補給がない まま、熱帯の密林でほとんどが病死。マラリア、アメーバ赤痢、デング熱、腸 チフスなどの熱帯性の感染症と飢餓による栄養失調。そして餓死。ひどい。こ ういうのが太平洋に島のあちこちで起きていました。
 日本兵同士で食料の奪い合いもあったようだ。人肉事件というのもあったようだ。ニューギニアでは3年半に20万人投入して18万人が亡くなった。なんという数字だ。
ラバウルから補充や護衛などサポートしなかったのか?上層部は精神論で勝てると思ったのか?超能力使えというのか?
また、現地民で結成した「高砂 義勇隊(たかさごぎゆうたい)」という勇敢な部隊もあった。彼らの活躍や犠 牲者、補償についてはもっと勉強してから書きたいと思います。

★サイパン島陥落  1944年6月~
こうしてアメリカ軍が日本に手の届くところに拠点を置き始め、いよいよ苦しい守勢になった日本軍は本土が危険と思い「絶対国防圏」というのを設定しま す。 1943年9月の御前会議で千島列島~マリアナ諸島~トラック~ニューギニア西 部~蘭印(オランダ領インドシナだったジャワやボルネオ)~ビルマという範 囲の設定。
これでもとほうもなく広い領域だ。空母も戦艦も戦闘機も弾薬も少ないまま、 どうやって守るか、本来ならあらゆる戦局を想定して何通りもの対策を考えるべき。
にもかかわらず海軍は依然としてその範囲の外のソロモン諸島(負けたガ島や ラバウル含む)の確保にこだわりこの絶対国防圏の防衛は後回しにされた。じゃ御前会議の意味ないじゃん。
そんなだからサイパン島は空襲と戦艦8隻、巡洋艦11隻から砲弾合計18万発も の艦砲射撃などで航空機150機すべて失った。水際の陣地も半壊した。それから 300以上のLVT(水陸両用車)で海兵隊8000名が上陸し、10km幅もある橋頭堡 (きょうとうほ→前線の拠点。防御されていて補給や兵士の交代を行う。)が 完成し、海兵隊2万名以上が上陸した。こうなっては反撃は厳しいでしょう。
万策尽きて、サイパンに残された兵士は軍の命令でろくな武器もなく突撃 して死んだバンザイ突撃。集団自決。民間人が飛び降りて自決したバンザイクリフなどと悲惨な状態になった。教育で「戦陣訓」が刷り込まれ、「生きて虜 囚の辱めを受けず」という信念を全うした人。生きたいのに無理強いされて殺された人々。
1944年6月
同じ頃マリアナ沖で海戦になり、大敗北する
すでに経験豊富なパイロットはほとんど戦死していて、ろくに訓練も全うして いない若い兵士が戦闘機に乗って行ったが簡単にうち落とされ、「七面鳥打 ち」と揶揄されていたという。
作戦もなんとアメリカに漏れていた。「海軍乙事件」といって、パラオから飛行機で前線から逃げた司令や参謀たちが悪 天候で不時着し、フィリピンゲリラに捕まって福留 繁という参謀が持ってい た超重要な機密書類をとられてしまった。これがアメリカ軍に渡り、マッカーサーに読まれた。物量や装備が違う上に戦力も作戦も筒抜けで先回りされては 勝ち目はありません。しかも日本本土の空襲にも利用されたという。
あ、ちなみにこの福留はこの国家を揺るがす大失敗を隠蔽し、不問に終わり、 戦後も生き残って「水交会」(靖国神社への月例参拝などしてる海軍系の財団 法人)の理事長などになってる。恥ずかしくないのかね。ていうか誰か糾弾しなかったのか? こういうへたれ上司のせいで何10万人も死ぬことになるんだね。助さん、格さ ん、懲らしめてやりなさい!
空母3隻(大鳳、翔鶴、飛鷹)沈没
補給タンカー2隻 沈没
艦載機378機 喪失
潜水艦は21隻中8隻を喪失
その他戦艦や空母や補給タンカーが損傷。

あいかわらず巨大戦艦大和は動かず、ホテルと呼ばれた。メシ、風呂、寝床と 優遇されていたからね。

これによってサイパン島はアメリカ基地になった。サイパンはアメリカ軍長距 離爆撃機B29が本土に空襲できる距離。
それでも国内には知らされず、作戦も変更しなかったという。
まるで原発事故での政府や東電の体質そっくりですね。
軍令総長 永野は何考えてんの?  てか考えてないだろう。一回現場見て来なってことです。

★次にレイテ海戦の敗退。1944年10月
初期ではスマトラ島にあったパレンバン製油所など、大規模な油田を占領していたが、「シーレーン」つまり本土に運ぶための海路を連合軍に攻撃され、民 間から重用した船舶も含め次々撃沈され、運ぶことができなくなった。んなこ と島国なんだから最初から狙われるのわかってるでしょが。広範囲に進撃するよりも、まず燃料資材を確保して長期戦に備えなければいけなかったのに。首 脳陣が無能だと被害が増えるのは3.11原発事故でも同じでしたが、昔から日本 のお家芸なのですね。
そして1944年10月 フィリピンにこだわるマッカーサー率いる連合軍とレイテ島沖海戦になる。
日本海軍は残された軍艦ほぼすべての投入、陸軍も多数の部隊を配置し、アメリカも太平洋に展開する大半の軍事力を集めて戦った大規模なものになった。 (といっても海軍が中心。ヨーロッパでもナチスなどと戦っていたんだから恐るべき国力)
神風特攻も導入された。いっぽう巨大戦艦大和は引き返してしまい、あいかわらず効力発揮しない。

日本軍犠牲者8万4千人
対して米軍の死傷者は1万5千人
日本軍は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、
行き残った艦艇は燃料がなかったり修理ができないなどでもう組織的攻撃能力 を失った。
この海戦に負けてマッカーサーにフィリピンを押さえられたことで輸送路は遮 断されてしまった。本土空襲どころか上陸も可能になった。
事実上この時点で負けなんだから降参すれば良かったと思います。
まだ原爆も落ちていないし。大規模空襲前だから無意味な犠牲者を何十万人も出さずに終われたはず。

★硫黄島の戦い 1945年2月
クリント・イーストウッドが日米両側の視点から2本の映画にしたのでご存知 の方も多いと思いますが、栗林 忠通(くりば やし ただみち) 中将は地元住民を別の島に避難させ、トンネル を駆使した独自の作戦で1ヶ月持ちこたえた。死者は日本兵2万人にたいし米兵 3万人。双方大きな死者を出した上で占領した旗を立てた有名な写真がありま す。アメリカではこれを宣伝の目玉にして「戦争国債」を買ってくださいと キャンペーンツアーを行った。 この栗林中将のような人が海軍司令部にいたら、あるいは軍の上層部にいた ら、もっと違っていたでしょうね。でもいつの世でも、有能な人が威張っているだけの上司が支配していて力を発揮できないという構図はあるものです。
 憎まれっ子世にはばかる。軍令総長 永野修身と、機密文書をアメリカに渡してしまった福留繁とか、恐怖の最近部隊731部隊の生き残りが医学会を牛耳るとか、沖縄久米島の従民を虐殺しても不問に終わって今も生きている鹿山の部隊などですね。
現在もそういう構図で会社がつぶれたり、金融機関が優遇したり、一般市民に余計な税金がのしかかったり、放射能が蔓延したりするのですね。

★爆撃機B29による本土攻撃  1945年3月~終戦迄
やがてとなりのテニアン島からも含めB29が続々本土に空襲を始めた。
海 軍乙事件でアメリカに渡った機密書類が利用された。各地で民間人が無差別攻撃され、焼け野原に。200以上の都市が攻撃され、33万人死亡。負傷者43万 人、被災人口は970万人に及んだ。
東京空襲だけでも死亡・行方不明者は 10万人以上と言われる。
 私は南太平洋を旅した時、サイパン経由でテニアン島、ロタ島に行きましたが、いまだ太平洋戦争の残骸があちこちにあり、衝撃を受けました。それがこうい うコメントを書くようになったきっかけです。これについては何回も 書いてきましたので今回は詳しくは書きませんが、テニアン島の飛行場を地元のフィリピンのおじさんに案内していただきました。現在は使われておりません が、誰もいない広い飛行場の滑走路を、レンタルしたジープで端からずっと突っ走ってもなかなか反対側の端につきません。それだけ巨大な飛行場だったので す。ここからB29が大量に飛び立ったわけですから、かなうわけありません。ここをとられないような作戦を考えるべきでした。
当然硫黄島の戦闘や沖縄戦にも使われたわけですから。

★沖縄戦 1945年3月~終戦以降も
 あまりに悲惨で大きな出来事で、今も爪痕を残すものなのでおいそれとは書けません。アメリカ軍は本土襲撃のための地上基地を作るのが目的、日本軍 は本土決戦を遅らせるために、時間稼ぎの「捨石作戦」とした。ひどい。
沖縄戦での死亡者数
日本軍兵士   9万4000人
沖縄一般市民  9万4000人
アメリカ軍   1万2000人
約20万人が死亡。
なぜ軍人と同じだけ沖縄市民が亡くなったのかが愚かさの証明です。
いろいろ本や映画、ドラマ、アニメになっていますので、無知な私が浅はかな説明をするのはさけます。ひめゆり学徒隊、ガマでの集団自決、日本敗残兵による恐怖。
それでも沖縄戦について知られていないことがまだあって、一部を書いておき ます。
ご本人たちがもう思い出したくない、話したくないということでな かなか明らかにならなかったのですね。話したところで死んだ人間が生き返る のでもないし、解決できないし、つらいしと言うことだと思います。「日本軍 への恐怖」が長い間残っていたのもある。 敗残兵によって苦しめられたのです。
ラジオの普及率が低い上に電力事情が悪い状態なので、沖縄県民は玉音放送は 聞いていない。戦争終結を知らなかったのだ。上層部は沖縄をアメリカ軍が本 土上陸するのを遅らせる捨て石と使ったくせに、終戦をしっかり伝えて早く解 放するということを考えていなかったのですね。
沖縄一般県民は終戦後も日本の敗残兵に苦しめられる。
例えば久米島では日本兵に虐殺されたりしている。
少年と家族が殺され首を切って持っていっている。その二日後も惨殺された家族がある。 通信隊の鹿山 正という海軍兵曹長が、アメリカ軍と接触した者はただちに引き渡すこと、違反した場合はスパイとみなし、家族、警防団長、区長は銃殺するという発布をした。住民はお互いに疑心暗鬼になってしまった。それで今も語りたくないという面があるのでしょう
しかし軍人なのに戦争終結したことを知らなかったのか?
 赤ん坊~70歳まで20人は殺されている。しかしこの鹿山本人たち部隊20人ほどは9月に普通にアメリカ軍に投降している。はぁ!?でしょう。
こうして日本兵が完全退去になり、久米島はやっと「日本軍からの」脅威から解放された。ほんとすみませんと言いたくなります。
 しかもこの鹿山という男は裁かれることなく今迄生きている!しかもテレビで は「軍人として当然だった」「教育のせい」と公の場で語っていて沖縄県民から怒濤の激怒を買っている。
 これが物語っているね。当時こういう隊長や指揮官を大量に生産して、戦地で 無駄死にさせられた兵士や一般人が未曾有にいたのですね。そして他にもこう いう戦犯が生き残って地位についていたりするのでしょう。
中にはアメリカ軍に秘密や技術を教えるのと引き換えに刑を免れたのも結構い る。例えば恐怖の人体実験をしていた細菌部隊の731部隊 はデータと引き換えに裁判を逃れ、戦後、大学の役職に就いたり医薬品会社の 重鎮になったりしている。 戦後、お偉い地位について私腹を肥やしたりしたのだ。こういうのを野放しにしたからミドリ十字社など薬害エイズ事件をもたらしたりするのだ。
助さん、格さん、存分に懲らしめてやりなさい!梅安さんもお願いします。

★そうして1945年5月ナチスが無条件降伏した。
ベルリンのポツダムでアメリカ、イギリス、中華民国による「ポツダム宣言」 を作成し、日本につきつけました。(ソ連はあとから加わった) 「降伏しなければ迅速に壊滅する」という恐ろしいものだ。
首相や軍令部は低能パかチんだからまだ戦うつもりでいて新聞には「黙殺」と 載る。
愚かの極み。
 すると8月6日広島に先ほどのテニアン島から飛んできたB29によって原爆が投下された。
人類史上初めて原子力爆弾が殺傷目的で使われました。ウラン235を使ったリトルボーイ型と呼ばれ、当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に死亡してしまった。
信じられませんがそれでもなお首相や軍令部は無能パかチんだからまだポツダム宣言を受諾しない。「国体護持」つまり天皇制は残るのかという点で陸軍が 粘るからだ。目の前にいる天皇というヒトがまだ神だと思ってたんですね。この期に及んで本土決戦でもして連合軍に勝てると思ってる異常者が権限を持ってい たらしい。
中には原爆が新型爆弾ではないと言っていたものもいるらしい。(もちろん国民には放射能の被害がある新兵器だということは知らされません。ずっとあとのことです。)
そうこうして無能どもが引き延ばしているうちに、 8月9日長崎にも原爆が投下されてしまう。プルトニウムを使ったファットマン型によって人口24万人(推定)のうち約14万9千人が亡くなった。

もう勝てないことはわかっているのだから早くポツダム宣言を受諾していれば ふたつの原爆は落ちなかったし、この期間の空襲で死ぬこともなかった。福島 の原発事故と同じで人災ですね。

★実は近年、新たに明らかになったことがあります。
これまで日本は、アメリカで原爆が作られていることを知らず奇襲を受けたとしてきたけれど実際は事前に察知していたのです。
日本軍には実は陸軍に諜報部隊が存在しており、存在は秘密になっていた。
諜報部は、飛行機が通信するときはじめにコールサインの数字を打電するがそれが所属部隊の何番機かを表していることはつかんでいたのです。内容は暗号化されてわからないがどの飛行機がどこからどこへ通信するかはおおむねつかんでいた。
いつも本土へ空襲してくるのは50機など大編成。しかし10機ほどしかいない別動隊が日本には来ないでテニアン島で訓練していた。それで600番台で交信するこの部隊が「特殊任務をもった部隊」らしいと判断していた。
(当のアメリカ兵ら自身も何の作戦か聞かされず、他の部隊の人間と接触して はいけないと厳しく管理されていた。) 日本諜報部隊は別にアメリカが新型兵器を開発しているらしいこともつかんで いた。それが原爆かもしれないということも。
8月6日、コールサインを傍受した諜報部隊は、特殊機が広島に迫っていることを察知。 参謀に報告したが広島にはなぜか伝わらなかった。
広島の地上でも高射砲を構えて、機影をとらえていたがなぜか発砲しなかっ た。弾薬温存のためなのか、1機だけなので偵察機と思われたのか空襲警報がいったん出て解除されて人々が出てきて無防備な中、原爆が炸裂した。
そして9日未明、軍は再び同じコールサインを傍受、「第2の原爆」と確信した。情報は軍上層部にも伝えられたが、長崎の悲劇も防ぐことはできなかっ た。
原爆を積んだボックスカーと呼ばれたB29はまず福岡県小倉市(現北九州市)に向かった。天候が悪かったので長崎に向かったと言われているが、ディティー ルはこうだった。アメリカ軍は原爆の効果を正確に知りたいので、じゅうたん爆撃で破壊した場所ではなく、まだ空襲を受けていないところを標的にしたかっ た。第一目標の小倉、第二目標は長崎だった。小倉の投下進路に3度侵入を試みたが失敗して長崎に向かったのです。これは小倉には兵器類を作っていた工場が 多数あったので、空襲をとても警戒していた。それで空襲警報があると風上で重油などを燃やして煙幕を張っていたのだ。そして迎撃戦闘機も飛んで、高射砲も 発射され、追い立てたのである。これは原爆だという情報が伝わったのか、それとももともと空襲を警戒していた対応なのか、そこは現時点では分からない。こ うしてボックスカーは長崎へ移動したのである。
 長崎では迎撃命令が出なかった。この国家の一大事に。.
迎撃戦闘機の生き残りパイロットはB29は落とせない飛行機ではない、もし 指令を受けたら迎撃したのに、ととても悔しそうに語った。撃墜できないまでも投下を阻むことはできたであろう。高射砲も構えていたが指令が来なかったので 打たなかった。なぜ知らせてもらえなかったのか?なぜ出撃命令が出なかったのか?

★ここまではテレビでも放映され、出版物もあることなのですが、恐ろしいことにまだ裏が あるということを鬼塚英昭という人が本にしています。実は原爆がどこに落ちるか上層部も天皇も知っていてアメリカと密約していたというのです。アメリカは 原爆を使って効果を知りたい。どこに落とそうか?と相談していたというのです。それで投下の前にアメリカ人捕虜はあらかじめ別の場所に移動させられていた 事実があるそうなんです。(福島の原発事故時にアメリカ政府がアメリカ人を遠くへ避難させたり帰国させたのと符合します。)
 これが本当ならなんとショッキングなことか。当書を読んだわけではないのでにわかには信じがたい。たしかにもしそうならいくら情報部隊が進言しても迎撃 命令が出ないことと符合するし、部隊は書類を焼き払って存在を一切口外してはいけないと箝口令がしかれたのもつじつまが合います。なぜ迎撃しなかったか追 求されると真実に近づいてしまうからなのかもしれない。
 ここまでくると「陰謀説」なので、いろんな実資料 や反論とあわせて検証する必要がありますが、今は音楽に専念する時期なので そこまでエネルギーをさけません。若い頃とんがっていた時期なら追求したかもしれないけれど・・。

★戦況が決定的になったところで今まで様子をうかがっていた後だしジャンケンのソ連が参戦。「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、宣戦布告してきました。少しでも領土など「おこぼれ」をもらおうという寸法だ。ヤルタ会談で連合国と密約していたようです。
陸軍が占領していた中国大陸に攻め入ってくる。それまで日本人に土地を奪われ支配され、抑圧に喘いでいた中国人や朝鮮人などにとっては、解放になります。
北海道方面に砲撃開始し、上陸してくる。
満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻し、各地で戦闘になったが、日本軍には勝ち目がなく約65万人(一説には200万人以上)の軍人・軍属が連行 されシベリアの強制収容所に連れて行かれた。彼らは、終戦後も過酷な環境下で強制労働に従事させられ、6万人以上が亡くなりました。
もちろん戦争犯罪である。私の親戚のジャーナリストが現地調査を行いました。
 ちなみにあまり知られていませんが、ソ連はポーランド人捕虜を大量虐殺した「カティンの森事件」も起こしております。

 日本首脳陣はもう猶予はないので御前会議で8月14日にやっとポツダム宣言の受諾を決定し、連合国側に伝えた。日本国民へは翌15日の放送に向けて天皇の終戦を伝える玉音放送が録音されます。
しかし、この放送直前でもまだどぐされカスどもが終戦に反対し、14 日深夜、放送をさせまいと宮城事件というクーデターを起こしました。池上 彰さんの番組でも特集されましたね。
放送スタッフが監禁され、参謀や師団長を殺害し、宮内省を占領し、電話線が切断され、警察官たちは武装解除させられた。玉音盤を探したが結局15日朝、鎮圧された。
そうして8月15日、玉音放送が流れて終戦になりました。
連合国にポツダム宣言受諾を通告し、9月2日に東京湾沖の戦艦ミズーリ上で調印。
こうして1941年12月~1945年8月まで続いた戦争は、あまりに理不尽な犠牲者を出した上に、得るものはなく、アメリカの属国となるという結果で終わりました。
(ちなみにクーデター部隊の生き残りは軍法でも刑法でも問われず、電通に就職したりしてる。介さん、格さん、たのみますよ。)


というわけで、戦争を始めた上層部はどういう方針で進め、どういう結末にすべきか、開戦前によく考えていなかった。
もし負けた場合はどうするかも考えていなかった。
そればかりか「開戦してから」も考えていなかった。
半年でどんどん負けだしてからも考えなかった。
いよいよ絶対防衛圏が突破されても考えなかった。
本土空襲、沖縄攻略されても考えなかった。
国のトップ、天皇、首相、軍令総長、海軍大臣、陸軍大臣らが戦争する力量はなかったわけですね。
国民の苦しさや被害を考えず、事実を隠し、いつまでも引き延ばすから死者が増大した。
ポツダム宣言で少しだけ考えはじめた。
広島に原爆落とされてあわてて考えた。
長崎に原爆落とされてばたばた決めた。
という始末。
さらに異議を唱える者を殺してきた。
これが太平洋戦争だったんですね。


まだまだ明らかにされていないことがたくさんあるけれど、福島の原発と電力会社の危機管理、原子力安全委員会、保安院などとそっくりですね。
 とにかく亡くなった兵士、一般市民、沖縄県民の方々のご冥福をお祈りいたします。


           2012年8月13日~17日  記

---
その1の内容→
終戦記念日に想う
   その1 ~開戦からミッドウェー敗退まで~

            2011年8月17日 記
前前回の更新↓

過去バージョンのコラム