旧バージョンの過去コラムです。
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トップページには専門の音楽以外に時事問題やアイディアの提示等して参りました。 安易な掲示板や匿名のブログとは違い、極力勉強して書いてきましたので、終戦記念日の学びなおし各シリーズや、原発問題等、重要なものはここに再録しようと思いました。
現在進行中のトップページコメントやコラムとも関係する内容を中心に以下、再録しておきます。 もとの日時を参考にお読み頂ければ幸いです。
2011年8月17日 記
★8月15日は終戦記念日でした。みなさんどう過ごされましたか?
わたしはお昼に黙祷してから、近くにある悲願寺にお参りしました。
うろ覚えになってしまっていた般若心経を紙に書き出して持っていって唱えました。
毎年この日の前後に戦争について考えます。 戦死者300万人そしてほとんどが餓死者。
日本はなぜ太平洋戦争を避けられなかったのか? どのような戦いだったのか?
今年も本や映像などで勉強しているところです。
近年膨大な量の生々しい音声テープやかつて極秘扱いされていた議事録があきらかになり、軍部の内での争い、利権がらみのおぞましいたくらみ、無能な首脳 陣、隠蔽工作などの様子がとりあげられるようになってきました。何か原発利権に絡む今の政治にそっくりです。
今回は学んだことを2回にわたってまとめたいと思います。まず「開戦からミッドウェー敗退」まで。
次回は「ガダルカナル戦から終戦の遅れ」です。
私はもちろん原子力発電は反対ですが、たんに放射能が怖いとか感情論だけではなく、どういう危険があるのか、メリットとデメリットは何で、隠された事実は 何かを知る必要があります。それについて勉強した結果、いろいろなことがわかってみなさんに知らせなくてはと前々回まで書いてきました。原発利権のために
わざわざ火力水力をとめていることや、従来より効率の良いガスコンバインド・サイクルなど一般の人は知らされていないからです。やがて実際に九州電力のや らせメール問題、保安院のやらせ質問、電力会社から国会議員への不正献金が発覚しニュースになってきました。
かつて第五福竜丸が水爆実験にさらされた事件で原爆水爆に対して国中で反対デモが行われる中、正力松太郎が「アメリカの世論操作作戦のもとにメディアを あやつり」原子力発電がスタートしたのだということをもっと知る必要があります。つまり国会議員、新聞テレビは原発推進の道具だったのですね。今回も唯一
の被爆国でありながら原発事故の被害を生み出していることについて言及や報道がほとんどありませんでした。追悼式典の様子も一部しか放映されませんでし た。あきらかに規制されているのですね。
こうした巧妙な大きな力に知らないうちに一般市民は操られているわけですが、原発と同様に、戦争に反対する以上、戦争とは何なのか、不可避なのか、知る必要があると思っているのです。
でも私は歴史は昔からちょっと苦手な科目で、義務的に教科書を覚えるぐらいしかできませんでした。まあ教科書が良くないのが一番の理由です。日本ではい ちいち年号が変わって通した数字じゃないから、長さの比較もしにくいしどっちが先かも覚えきれない。何より海外の西暦と併記していないので、地球単位での
進行がイメージできない。だれそれが何年に何をした。なにのなにすけが何年に即位したという文章がただ羅列してある。その「誰のなにすけ」を知らないから 感情移入も出来ないし、どういう人物か説明も無く、おこなったことが当時の背景上、すごいことだったのか必然だったのか、希有な努力の末なのかどうか・・ わからない。あくびが出る。
一つの文章中に歴史用語が多く、まずその用語の説明がなくてはいけないが、いちいち別の項目を見なければならない。あっちを見たりこっちを見たり。だか らまず現代の言葉で、知識が無い人が理解できるように書くべきだ。それからそれを歴史用語で言うとこうなるという手順が必要です。
例えば、ギター初心者に「パラレルキーに行く際にツーファイヴでサブスティチューテッド・コードを使い、解決したのちにペダルトーン上でダブルドミナン トを経てレイズド・ナインスなどのオルタードテンションを擁するドミナントを用いてトニックに戻る。」といってもちんぷんかんぷんでしょう。まずパラレル
キーの説明を見て、それからツーファイヴを調べて・・・。いちいちその前提を理解しなくてはいけない。だが、用語を調べる中に別の言葉が出てきて、調べる ことが入れ子式になってくる。だから耳で理解できるよう実技を合わせて前の段階をやっておく必要があります。
それと同じ。自分の知らない人物が知らない時代に何か書き記したとか、決めごとを作ったとか、誰を負かしたとかいっても、そう?それで?。って感じ。想 像できないんですよ。 せいぜい織田信長とか坂本龍馬とか聞いたことある、とかドラマ見たことあるということがきっかけになるかという程度です。このようにテキストに魅力がない
のは教える側が本気じゃないんですね。かつて子ども人口が多く生徒がたくさんいた時代にふるいにかけるために、必要最低限の情報を羅列して、覚えられなけ れば失格、という方式でやっていた。自分たちの国がどういう積み重ね出来てるか理解しようよって情熱がゼロ。
当然母国を愛する心なんて育たない。そうして頭が良く、世渡り上手な一部の連中が東大を経て政治家になったり、電力会社に入ったり 大企業で汚職をした り、私腹のために暗躍するようになっちゃったわけです。結果歴史を勉強する意義の本末転倒になっちゃう。むしろ新しい負の歴史を作っちゃう。
ほんとうの歴史、人間が積み上げてきた出来事、業績や過ちを、イマジネーションや同情や怒りや感動や誇りや後悔を持って振り返り、吸収することが大切。それによって同じ過ちをくり返さない。
やはり「概論」という大きな流れをつかんだ上で「各論」というディティールに入るべきでしょう。
また、教科書が悪くても情熱を持って教えてくれる先生がいれば違ったかも知れませんが、残念ながらそういう人はいなかった。 それで自分が先生になろうと思ったわけです。美術ですが。手作りの教材や心の問題を表現したり自然素材を使ったり工夫しました。 そして今は音楽を教えているわけです。日本にはよいテキストがない。特にギターや理論に関しては。これは歴史と同じです。だから実地にフレーズを弾いて見
せたり、スローに分解して指の動きを確認してもらったり工夫しています。
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さて戦争の話に戻りますが、太平洋戦争(日本は大東亜戦争と呼んでいた)が起きる頃、各国はどういう状態だったかを知っておく必要がありましょう。
日本は中国と戦争している最中でした。日中戦争ですが、アメリカが中立政策に入ると困るため戦争ではなく「志那事変(しなじへん)」と呼んでいました。
ヨーロッパでは1939年にナチスドイツが英仏と戦争状態になり第二次世界大戦になった。
フランスは翌1940年6月、ドイツに負けてしまった。
同盟国を失ったイギリスはなんとかアメリカを参戦させたかった。チャーチル首相はいろんな策を巡らす。
アメリカは19世紀初頭から海外問題には関わらないと いう孤立主義(モンロー・ドクトリン)をとっており、ルーズベルト大統領は「決して皆さんの息子さんを外国の戦争に送ることはしません」と選挙で訴えて3 期目の当選を果たした。世論も第二次世界大戦が勃発した後も海外派兵を拒絶していた。(今とは大きく違いますね)
ソ連はロシア革命によって連邦になったばかりで、荒廃 した国内を再建途上。それでスターリンは国力を温存するため日本と直接敵対するのを避けていた。日本と敵対していた中国の国民党に軍事援助をする形をとっ
ていたのだ。しかし日本が統括した満州国とソ連保護下のモンゴルとのあいまいな境のノモンハンで国境争いが起きた。これには兵力を投入し、国境を保持し た。これが沈静化し「日ソ中立条約」を結んだところ。 それでもフランスを倒したドイツがソ連にしかけてくるおそれがあった。シベリア鉄道は満州国との国境に沿っていて、日本が少しでも北に進出してくると輸送
がたたれてしまう。そこで日本が南の英米仏領に進出するのを期待し、工作員を暗躍させていた。
中国はそれまで内戦で戦っていた中国共産党の毛沢東と 国民政府の蒋介石、汪兆銘が協力して日本に抗戦した。蒋介石は国土が広いのを利用して奥地に引き込み、長期化させ、3年ほど負け気味でいればアメリカやソ
連が参戦してくるはずという作戦だった。その通り甘く見ていた日本軍はずるずると泥沼化した戦闘を続けていた。そして中国のもくろみ通りアメリカの参戦と いう事態になる。
ということで、大筋では1937年に日中戦争が起こり、英米ソが中国を支援したところが始まりのようです。日本が中 国を侵略するのをよしとしなかった。その中で日本がフランス領インドシナ(現ベトナム)へ侵攻する。英米ソが中国へ支援する輸送路の遮断が主な目的だった ようだ。
しかしこれによってイギリス領のシンガポールと香港、アメリカ領のフィリピンという3カ所を脅かす状態になり、英米を敵として参戦させてしまったのだ。
アメリカは当初外交で解決しようとしていたが、好戦的な日本の態度を見て無理と思い、石油の輸出をとめ、日本に「ハル・ノート」を突きつけた。 これは日本が了承することが出来ない条件を羅列した厳しい内容のもの。そうして戦争に向かった。
もう少しだけ細部を見てみましょう。
1941年4月 アメリカに知人の多い海軍大将、野村吉三郎が在米大使に任命され、コーデル・ハル国務長官に非公式での交渉を続けた。「日米了解案」といういい形が出来つつあった。
ところが松岡洋右(ようすけ)というパカちんがもっと強硬な交渉を、とあらたな協定案を提示した。ハルに渡したとたん、状況は悪化した。松岡はナチスド イツ、イタリアと三国同盟を締結した外相。つまりアメリカから敵と見なされる要素を振りまいたわけだ。
1941年7月 日本がフランス領インドシナ(現ベトナム)に進駐したので、アメリカは姿勢を硬化させた。シンガポールやインドネシアに進出する足がかり と判断したわけですね。フランス領インドシナ進駐を中止する事を要求し、アメリカにある日本の資産を凍結。石油の輸出ストップ。
当時の首相近衛文麿(このえふみまろ)は松岡を更迭し、外交で解決しようとアメリカに首脳会談を要望した。だがアメリカは中国とフランス領インドシナから 全面撤退し、三国同盟を無効にしないかぎり、首脳会談には応じないというかたくなで厳しい要求をしてきた。 近衛内閣は総辞職します。
1941年10月 そうして強硬派の陸軍大臣、東条英機が首相になってしまったのだ。 開戦を決めたのは大本営政府連絡会議。
首相 東条英機。海軍大臣 嶋田繁太郎。企画院総裁 鈴木貞一。
軍令部総長 永野修身。陸軍参謀総長 杉山 元。
といった面々。
開戦時、アメリカとの国力差は国民総生産12倍、鋼材17倍、自動車保有台数160倍、石油721倍とわかっていました。子ども用の冊子にも記されていた。ではなぜアメリカに宣戦布告したのでしょうか?
日露戦争(1904~05年)はその時より35年前。1対10の国力差がある大国ロシアに勝てたのだからアメリカにも勝てるのだという精神論がありました。妄想に洗脳ですね。
また、天皇も軍の参謀もちょうど幼少期に日露戦争の凱旋、英雄談や絵本を見て育った世代。事実やデータよりも楽観視したのでしょう。
実は日本は日米開戦から20年も前に中国をめぐってアメリカと経済的に対立すると予見してた。「定刻国防方針」を改訂し第3条で書かれている。奇しくも同時期、アメリカも対日作戦計画「オレンジ・プラン」を採択しています。
そして、財政の準備はできているつもりになっていた。軍事予算を特別会計256億円(今の価値に換算で20兆円)で陸海軍が使う自由を得ている。そのう ち3割を当面の日中戦争に、7割は陸軍は対ソ、海軍は対米にとっておいた。 それで短期決戦ならアメリカをねじ伏せられると予想したのだ。妄想って怖いね。初戦がどうあれ、どんどん兵器を増産して長期になるのは確実なのに。
しかも海軍の重鎮、山本五十六(いそろく)が奇襲作戦が成功すれば1年半はもつと提案した。
そのあいだに講話に持ち込むつもりだったようだが、どう考えても長期化する。するとどうするか、どうやって集結に持ち込むかは考えていない。国としてのビジョンもなかったんですね。
大本営連絡会議では「ハル・ノート」は承諾できんということに。内容はフランス領インドシナだけでなく中国からの撤兵、中国利権の放棄、ドイツとの同盟破棄など。
ソ連の工作員がアメリカ人にはたらきかけて日米を敵対させたという説もあります。財務省のハリー・ホワイトに接触し、対日交渉で強行に出ることが最善と信じ込ませた。ホワイトは「ハル・ノート」の原案を書いた。
こうして各国の思惑に乗せられて日本はアメリカと開戦する。
11月の御前会議で開戦が決まった。天皇がゴーサイン出してしまった。そして12月8日に開戦。ハワイのオアフ島パールハーバー基地を攻撃した。つまり真珠湾攻撃です。
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真珠湾攻撃は一般的には大成功のように言われていますが、よく調べてみると、いまいちの所もある。
まず、ラジオのホノルル放送を誘導電波代わりにオアフ島に向かったが、アメリカ機B-17編隊を誘導する役目を担っていた。それでレーダーにとらえられたにもかかわらずアメリカ軍はB-17編隊と間違えて空襲警報を発動しなかった。これは偶然。
次に、第1波攻撃隊の淵田中佐は「奇襲」をあらわす信号弾を撃ったが、ゼロ戦隊が気づかなかったため、もう一度信号弾を撃った。すると一発目に気づいて いた艦爆隊長の高橋少佐は2発の「強襲」の合図と思い急降下爆撃を始めた。 2発目で気づいたゼロ戦隊は「奇襲」のつもりで魚雷攻撃スタートということで低空飛行。それで同時につぎつぎ3次元的な急襲になった。これも偶然。
さらに、第2次攻撃が予定されていたが、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将が目的を達したと判断し、帰還命令を出してしまった。 重油などをストックした巨大燃料貯施設、船舶修理施設のドックも無傷のままにしてしまった。これによって米軍はすぐ立て直して反撃出来るようになってしまったのだ。
なにより、後に苦しめられるアメリカ軍空母がいなかったので撃沈できなかった。
もうひとつ重要な要素は「宣戦布告より前に攻撃した」と いう点。ここはいつも論点になるとこです。KKベストセラーズ社「歴史人」9月号によれば、前日から宣戦布告を打電したが在米大使館員の不手際によって遅
れたようだ。全14部からなる宣戦布告文のうち13部までは前日に受信され暗号解読済みだった。最後の1部は当日早朝に受信され、アメリカに13時に渡す よう厳密な時間指定の別電も届いていた。
ところが前日土曜日夜に転勤者の送別会が催され、日本の書記長らがパーティー気分が抜けないまま日曜出勤した。これによって前日の13部もタイプ清書さ れていなかったうえ、肝心な第14部がまだ解読されていなかった。バカっ。手渡す時間指定が届いていただろが。しかも13部を読めば開戦に関わる超重要文
書であることがわかるだろが。それで一等書記官がおぼつかない手つきで英語タイピングし、野村吉三郎大使がやっとハルに渡したのは14時20分。1時間 20分も遅れた。攻撃が始まってすでに50分たっており、ハルは「これほど破廉恥な外交文書を受け取ったことはない」と憤激した。
8割近くのアメリカ人は日本と戦争すべきではないと言っていたのに、これによって卑怯者、日本憎し、ということになり「リメンバー・パールハーバー」という標語になり、一致団結してしまった。
一説ではアメリカ軍部は暗号は解読して奇襲が来ることを知っていたが、あえて対応しなかったという。犠牲は出るが、これによって日本は悪者になり、ルー ズベルトはモンロー・ドクトリンにしばられることなく参戦する大儀を得るからだ。 というわけで、偶然やミスも重なりほんとの奇襲成功とはいえないように思います。
そしてこの瞬間、アメリカの参戦を待望していたイギリスのチャーチル首相は「勝った!」と確信したそうだ。「これでヒトラーもムッソリーニの運命も定まった。無限の力を生み出す巨大なボイラー米国にとうとう点火されたのだ」と。
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★戦況の変化ですが、おおざっぱに言ってはじめのうちは奇襲等の作戦でマレー、フィリピン、インドネシア、ビルマを手中に収めた。
ところが、図に乗って範囲を広げ、ミッドウェー海戦で負けたことで激変し、ガダルカナル、ニューギニア戦線、ラバウ ル、マリアナ沖海戦、レイテ決戦、すべて負け、補給物資はたたれ戦う以前に餓死、病死が続出、本土を空襲され、硫黄島の激戦、そして沖縄戦による時間稼 ぎ、ポツダム宣言をいつまでも受諾しない軍部のせいで広島と長崎への原爆投下とソ連の参戦を招き、終戦となる。
もう少し詳しくみてみましょう。石油や鉄等の資源がない日本は、ボルネオの油田などいわゆる「南方資源」を確保することが重要だった。アメリカからの石油に頼っていたのが経済制裁でストップしたからです。ボルネオのタラカン油田では1日に4万バーレル出て日本の40倍あった。その他ボーキサイト、鉄、ニッケルなど。武器弾薬、造船、修理などに必要だった。
それで陸軍は占領した地域を守り、基地建設し、本国に資源を送るのが大事。これによって戦争を終結させてもいいという方向だった。だが、海軍はもっと占 領区を広げ、アメリカ海軍を壊滅させるのが目標。 この方針を巡って大本営はいつまでも議論で平行線をたどり、その上の決定権は天皇しかない。だからこの時に天皇がよしなさい、まず資源を確保することを優
先しなさいと言えば良かったのだが、その能力がなかった。
42年2月9日 海軍は陸軍よりはるかに広く戦線を拡大しようとしていた。
決戦は東はハワイ、南はオーストラリア、西はセイロンまでを範囲とし、入手した資源と戦力をその戦線へ送り込んで戦うのだと。そこまでやって圧勝してはじ めて講和を導き出すという方針。 海軍省が作った開戦時の日米海軍戦力予測のグラフではアメリカがどんどん増強し、たちうちできなくなる。守っていてもひとたまりもない。だから相手の戦力
が整わないうちに打撃を与えて戦意を喪失させるという方針。
ふ~何をとちくるってんだろね、どう考えてもアメリカが戦意を喪失するわきゃないでしょ、アメリカは国民総生産12倍、鋼材17倍、自動車保有台数 160倍、石油721倍なんだから。資源も兵器製造も兵士も無尽蔵のようにあるのだから。やっと油田を占領したぐらいの小さい島国に「戦意喪失」なん て・・どこから妄想が生まれるのかね。
真珠湾でも修理ドックと燃料を無傷のまま戻ってきたわけだし。おまけに占領した油田でもガソリンへの精製がきちんと出来ない。その技術がなかったのだ。戦後の実験ではアメリカが作ったガソリンとでは12%の性能差があった。
もちろん陸軍は反対した。そのためには12個師団の兵と部隊の輸送に船150万トンが必要。国家経済が麻痺すると。
占領地を開発、建設、資源を内地へ送ること、基地を要塞化することが大事と主張。 つまり陸軍は資源は確保できたので守りに入るべきというのに対し、海軍は戦場を拡大しアメリカを倒すつもりだった。 この意見の食い違いがずっと続いた。
陸軍は陸軍で日中戦争(1937~45年)にケリをつけるためビルマの攻略をにらんでいた。
連絡会議にあげる書面の文言を練るに当たって、
海軍は「既得の戦果を拡張し英米の屈服を図る」
陸軍は「既得の戦果を確保し長期不戦体制を確立する」を主張した。
3月4日に折衷案で「既得の戦果を拡充し、長期不戦体制を整えつつ機を見て積極的方策を講ず」 になった。両方混ぜて文句が出ないようにしただけ。バカっ。 この課長たちの作ったおろかな文章が東条首相たちに吟味された。
3月7日 連絡会議 東郷首相たちは意味が通らないと指摘したが、従わせる指導力がなかった。 ここが国策の分岐点だったのに。ここで海軍をいさめる力量が東郷になかったのだ。このまま天皇に上奏された。 天皇がこれではダメだと言えば良かったのだが、判断力はないからそのままとおってしまい、海軍の拡大路線を黙認した結果になった。方針のないうやむやなま
ま陸軍も海軍も勝手に進めることになった。
3月8日 海軍は独断でニューギニアに上陸。 陸軍も海軍も自分たちが想定したとおりに行かなかった場合どうするか、考えていなかった。 陸軍はここ海軍はここと占領した領地を割り当てた。つまり割り当ての領地から算出される資源はそっちの軍のもので独占する。分けてやんないよ~。ッてガキ のけんかかいッ。
海軍は船を走らせるのに膨大な燃料が必要。陸軍は中国との決着をつけるのに燃料が必要。とりあいですね。 8割を算出する地域は陸軍のものだった。それを海軍がねたんで確執が続いた。
こういうことを統括して配分する上部組織がなかった。これは国のシステムとして欠陥ですね。
さらにそこに利権がからみ、産業界、経済界が口出ししてきた。 なんて愚かなんだろう。
占領地経営の計画がなかった。つまり占領した領土をどう統括するのか予定を考えていなかった。 そこで急遽「大東亜共栄圏」という構想。
42年3月 首相官邸に大企業の経営者や経済界のリーダーが招集された。
大東亜建設審議会の議事録では、満州重工業の鮎川という総裁が「向かうから採って来た資源は対価を払わないでよい、タダで採る。支払いは100年先でもい いと思う。」などと言っている。戦いにも行っていない企業のハイエナ成金が。 中には露骨な搾取に躊躇する者もいたが、企画院総裁の鈴木貞一が
「日本のやっていることは欧米から見れば搾取かもしれないが、自分のやることに正義感を持ってやる場合は搾取ということにはならない。」 と言っている。
は?意味がわかりまへン。横柄な態度でくびになった松本りゅうみたいなのは昔から居るんだね。ビジネスチャンスということで早いもの勝ちとして企業に配分 した。そして南方に企業が続々と進出した。 480社。利権屋というのが現場にやってきてインチキ軍人、日本から来た企業、現地軍人が任せた会社が奪い合いになった。これらの混沌とした状況で、本土
にも戦場にも物資が届かない。船が不足。国内は鉄など物不足という状態になった。
★私が思うに海軍が、戦場を拡大するならどこに何がどのぐらい必要か、具体的なてだてを検証すべきだった。あちこちに拡大するならどの船がどこにいつ、ど のぐらいの燃料と弾薬、食料が必要。 それだけの試算を出来る人間がいなかったのだろうね。または居ても上の人間が押さえつけたのだろう。考えれば無理というのが証明されてしまうから。
加えて私が思うのは、戦闘して占領するのは好きだが、居座って統治するのは面倒くさいと思っていたのではないか。
42年6月5日 山本五十六の強引な作戦でミッドウェー攻略をはじめる。
日本とアメリカ大陸のちょうど真ん中に当たる小さな島。火山島が沈下して環礁になった島で、イースタン島とサンド島の二つがメインでアメリカ軍が長い時 間かけて飛行場と基地を作ってあった。だが、 陸軍が考えていた守備範囲のはるか外側。海軍内部でも異論が出た。 米軍兵力も把握しきれていなく、作戦上の疑問がいくつも出たが山本の強引な命令で遂行された。さらにハワイ攻略も構想されていた。
この作戦は、ミッドウェー島にある基地を攻撃するのと、奪還すべく現れるアメリカ艦隊を壊滅するのとふたつの目的があった。 2兎を追う者は1兎も得ず。もちろんアメリカ軍反撃で致命的損害が出た。
どうやら敵戦力を読みまちがえていた。これに加え空母は艦隊に対する装備と、地上を攻撃する装備は大きく違い、装備を換装しなくてはいけないらしいが、これに2時間もかかるという。はじめ艦隊向けの装備だったのを、ミッドウェー島基地が予想より規模が大きく、攻撃が必要なので換装する必要があると。なんと愚かな。しかも航空機が戻ってくるので艦上は空けなければいけない、そして米軍艦隊が予想より早く現れたため、またもとの装備に戻さなければいけなかった。これを空襲をうけるなかあたふたやっていたというのだ。こんな重要なことに、情報収集に力を入れていなかった。いっぽう不備からアメリカ軍に作戦は漏れていた。空母は赤城、加賀、蒼龍、飛龍、と4隻もいるのだから、艦隊向けと地上向けと分けることはできなかったのか?。
それで日本が持つ主要な空母6隻のうちこの4隻が撃沈され、アメリカ艦隊を叩くどころか返り討ちにあったわけです。航空機280機を失い、死者2800名。これ以降の戦闘は兵力不足でどんどん負けるわけです。
っていうか強引に作戦決行した山本五十六「本人」は何してたの?主力艦隊であの戦艦大和、長門、陸奥も率いていたのに?まさか間に合いませんでしたとかいうんじゃないだろな。大震災時中国や京都に旅行に行っていた東電の清水や勝俣みたいに。あるいは、アイディアを出さないヤツは助けてやらないぞ~なんてふんぞり返っていたんじゃあるまいな(by泣きベソドラゴン)。
ようは危機管理能力と先を読む力も低く、情報収集も軽んじていたんだね。今の原発対処と同じです。冷却用の予備電源をふたつと も津波に弱い地下に置いた。燃料も海からすぐのところに置いた。それらが津波にやられ、電源だ電源だとあわてて電源車を50台も呼びつけたが形状が違うの でつなぐことが出来なかったというお粗末さ。水素爆発は起きんのだね?
はい起きませぬ、そのあとボン!これは他のも爆発するかも。ボン!ボン!ってなんてお幼稚な。とにかく冷やせ、海水だ、特殊車両だ、じょぼじょぼ~、あれ、漏れてるゾ、海に捨てちゃえ。っておまえら・・。扱えないんだったらやめにしなさい。
ところでもし互角に戦ってミッドウェー基地を占領できたとしても日本本土からは、5500kmも離れており自給できないこの小島では補給が必要。その シーラインは常に脅かされるので負担になるし、逆に米軍にとってはハワイ基地がある限り、いつでも出撃でき体制も整えられる。だからそもそも作戦自体がお かしいのだ。
やはり最初のハワイ奇襲で第2次攻撃をしないで、修理ドックや燃料施設を残してきたことがここでアキレスのかかととなった。
しかしこの大きな敗北が国家の首脳部には伝わらなかった。 海軍が拡大策の破綻を隠蔽したから。 東条には内密に知らされた。だがこいつは首相のくせに「秘密は守ろう。海軍の避難は一切するな」と言った。バカっ。
本来なら、だからいわんこっちゃないとここで縮小して守備作戦を練り直さなきゃいけなかったのだ。そればかりか驚いたことにミッドウェー敗戦後も拡大方針 に変化はなかった。 作戦の敗戦分析も行わず、責任追及も行わず、空母を4隻も失ったのに、まだ戦線を拡張しようとしていた。 パかちん。
生き残った兵士の証言ではミッドウェー敗北を伏せるため部隊は急遽ガダルカナル島へ送られ、武器も食料もないまま、2万人の死者を出した。
ここにいたっても陸軍と海軍は協力せず、場当たり的な戦闘をくり返した。インパールでは死者7万2千人、 ニューギニア戦戦死者18万人。アッツ島では戦死率99%。 クソ上層部のせいで無駄死にしていった兵士たち、なんてことだ・・・。
戦死者の冥福をお祈りいたします。今だ放置されている各地の遺骨が収拾され成仏されますように。
ガーティー・・ガーティー・・パーラー・ガーティー・・パーラーサム・ガーティー、バーディー・スヴァーハー。
(般若心経もとの発音)
★続きは次回ですが、ここまででも指導者が戦争の全体プランを示せなかった、示しても従わせられなかったことがわかります。 リーダーの機能不全です。これが大きな敗因であり、犠牲者を増やした原因ということが分かりますね。
★さらに有事だというのに目先の利益を優先した。戦争のさなかなのに企業との癒着で儲けようとした。
★そして最悪の場合をどう設定し対処するのか、危機管理意識がなかった。
ほんと現在の震災対応、原発対応の政治にそっくりですね。 これらがないまま戦争は拡大していった。 犠牲者は増え続けた。命令出していて戦後責任を追及されずのうのうと生き延びたのも居る。 ヘタすれば財閥で私腹を肥やしたり、高級官僚や警察で偉そうにふんぞり返った。That's いつもの Japan.
それでは近いうちに続編「ガダルカナル戦から終戦の遅れ」をUPいたします。各地の餓死戦線、なぜポツダム宣言の受諾が遅れたのかなどです。
平和なヒグラシジャーナルのコーナーも鳴き方の変化など更新予定です。
2011年8月17日 記
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その1の内容→ ★終戦記念日に想う
その1 ~開戦からミッドウェー敗退まで~
2011年8月17日 記
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