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★終戦記念日に。 人間は自分の日常から遠く離れた内容からは、目をそらしたくなる

  2018年8月15日  記

★人間は自分の日常から遠く離れた、忌避的な内容からは、目をそらしたくなる。
聞かなかったことにする、知らないふりをしたくなる。自分の身に起こったことでさえそうして心の安定を保とうとします。

 ですから遠い過去に起こった想像を絶する悲惨なことごとを、伝えられて真正面から捉えて、解決方法はないのか、と向かい合える人は多くはないです。
学校教育の中で戦争の悲惨さを写真などを交えて教えても、今ひとつ入ってこない。
その理由の1つに、自分が無力で重火器の前にさらされた時、ということを想像できないこと、重火器の威力自体を知らない、ということがあります。
カッコイイ漫画や映画の主人公は、敵の軍団が撃ちまくる弾幕の中でも当たらず、こちらが撃った弾では敵が次々と倒れる。
 もし主人公が撃たれてもすぐ治る。こういうことに慣れてしまっているのです。
チャンバラの昔から「活劇」というものはそういうものとして描かれてきました。
その後、死後の世界でも特訓して生き返る、又は幽霊として参戦する、という設定も登場する。
 ですから一回撃たれれば終わり、やり直しはきかない、という恐怖感が想像出来にくくなっています。
 この40年ほどはビデオゲーム(コンピュータやケータイ、ゲームセンターの機器)では、撃たれて死んでも次のゲームができるのが普通です。格闘技で闘って、残酷に倒されてもすぐ第2ラウンドが始まり無傷のコンディションで再戦します。これを子供の頃から1日に何十回も繰り返し、成長過程で何万回も行う。
これでは「やられる」という恐怖を想像するのは身につかないと思います。
実際に総合格闘技の試合などに出たとして、殴られれば痛いし鼻血もでるし、まぶたが腫れて見えにくくなります。蹴られれば、その激痛に、内臓が破裂したか もしれない、足が折れたかもしれないと動揺します。腕を絡まれれば、肘の靭帯が損傷するかも、首を絞められれば息ができず、死ぬかも、と思います。そうし た恐怖感、焦燥感、絶望感、恥ずかしさ、悔しさ、そういうものがビデオゲームにはありません。自分は柔道や少林寺拳法を学んだことがありますので、想像で きます。
 しかし銃火器では全く通用しないでしょう。遠くから引き金を引く(クリック)だけでお腹に穴が開いたり、頭が吹っ飛んでしまうのですから。
ゲームの中では簡単に続きができるし、相手を弔ったり、家族に謝罪に行ったりしません。
 もしコンピューター側がやられた時に勝手に再起動して再戦して来たら?泥沼の復讐合戦になって終わりがなくなります。そうなれば睡眠時間や、友人との交流、学びの機会は浸食され、肉体的にも精神的にも不健康な状態になるでしょう。
そう、つまりこれらは人間が、「わざわざストレスを作り出して、それを解決したくなる欲望を利用した商売」なわけです。これに踊らされてお金を払い続け、マインドコントロールされている状態ってもしかしたらたくさんない?
ドラマや映画での敵対設定、パチンコや競馬などのギャンブルとか、コレクターズアイテムとか、ジェットコースターとか、おばけ屋敷とか、入手困難なチケットとか。

  パチンコ場に行かなければ「負ける、すられる」という悔しい状態には出会いません。いったんお金を損すると取り戻したいという欲求が生まれ、抜けられなくなります。その中で適度に時々勝たせる設定に なっているので、「ラッキー!運が向いて来た」とか勘違いして続けてしまうのです。でも商売ですから、お客の方が儲け続けるようにはできていません。倒産 しますから。1ヶ月単位、1年単位で使ったお金、戻ったお金をメモしておけばマイナスになっているはずです。そしてその収益は、実は国外に吸い取られていたりします。
有名なアニメの設定やキャラクターなどもこの産業に利用されます。契約すると凄い利益になるため断れないのでしょう。
  かつて「たまごっち」というおもちゃがありました。小型の丸っこい端末のビデオゲームで、架空の生き物を育てますが、頻繁に面倒を見ないと死んでし まったり、凶暴になってしまったりする。そこで子どもたちは常に持ち歩き、育て具合を見せ合ったりしますが、授業中もいじったりするので、学校では困らさ れました。(私はかつて教員でしたので)
さらにこれが、生産数を少なくしたり、出荷を制限したりすることで「欲しい人が買えないというストレス」を生み出し、レアもの感を演出する。
するとお金に余裕のある人は高値でも買うということで、ネットオークションなどで法外な値段で取引される。話題にもなり注目される。ただしこの出品者がBAN○AI関係者でないという保証があるのかな。
     今、似たようなことがあります。「ガチャガチャ」とか「ガシャポン」と呼ばれるカプセルトイですね。昔から駄菓子屋の店頭や遊園地などにあって、お金を入 れてダイヤルを回すとゴロンとプラスチックの卵のようなものが出てくる。この中に様々なアイテムが入っているわけです。かつては文具だったり、おもちゃの 指輪、ガム、知恵の輪などでしたが、やがてキャラクターグッズやミニカー、リアルな動物フィギュアが増えて来ます。似たようなものにカラフルな銀紙に包ま れたチョコの内側にプラスチックの卵型容器が入っていて、開けると色々なアイテムが入っているという、キンダーサプライズとかチョコエッグ、チョコQ等も あります。
本来、何が入っているのかな?というドキドキと、これは何だろう、あ、そういうことかと理解する、という喜びだったので、他にどんなものがあるのかわから ないという、謎も楽しみだった。それがだんだん、こういうシリーズですよという写真付きの紙が封入されていたり、貼ってあったりする。すると「収集癖」が 刺激され、全部揃えたくなる。飾る楽しみ、持っているという所有欲、他の人はあまり揃えられていないという優越感、中にはネット上で写真を披露して自慢す る人もいるでしょう。こうしてシリーズ化したものを揃えたいという欲求が「創られ」ます。
アメリカの「Spawn 」ブリスター・フィギュアの革新(一時期集めました)か ら日本の小型おもちゃ造形も飛躍的に進歩して、今ではコンビニの食玩や缶コーヒーに付属した筒型容器、このガシャポンでも精妙な仕上がりのフィギュアや根 付けが展開されています。ユーモアのある造形、猫に被せるかぶりもの、などなど。ところが販売のおじさんと話をしてみると、そこにあるケースの中でコンプ リートできるとは限らないという。同じものが2回出てきてしまったり、目当てのものはなかったり。すると「ギャンブル性」というものが出てきます。
そしてたまごっち方式で、揃えてあるぞとオークションに出品されて競い合い高額になる。それを高値で買ったことで、所有欲は満たされるがある意味「ズル」 なのでギャンブルでは負けたことになるのだが。この中で、子供が欲しがるアイテムがあり、たまごっち方式で数が少なく中々出てこない。すると子どもは何回 もやってお小遣いを使い果たし、欲しくないものがたくさん手元に残る。かつての仮面ライダースナックのカードみたいなことに。
そこでお金に余裕のあるお年寄りがネットなどで何万円もかけてゲットして孫にこれがあるから遊びにおいで、ということになるのだそうだ。つまり遠くにいる おじいちゃんが孫の顔を見たいが中々きてくれないので、喉から手が出るほど欲しがっているガシャポンを法外な値段で入手して、それを目当てに遊びにきても らうわけですね。これって正常?
出品してる人誰?
このように新たに色々なストレスを産み出してそれを解決するためのお金で儲ける、という手法。これに踊らされるのって寂しくない?
 例えば手の込んだ食べ物で1日にこれだけしか作れまへん、という手作りのお店、行列になって、結局完売でたべられないひともでる。こいうのは仕方ないで しょう。品質が低くなって大量に作るよりも、作り手が納得いくものを丁寧に作っているから数に限界がある、ということ。これは工場で大量生産できているの に出荷を制限して「インチキの希少性という付加価値」を作るのとは違うのだから。つまり何のためにやってるの?という原点が問われる。自分が工夫したこ と、努力を重ねたことをお客さんが理解して評価して、喜んでくれる。その対価としてお金をもらい、生活する。農作物でも、建物でも、演劇でも、漫画でも、 音楽でも!それを、イライラさせる元を作って儲けようというのはどうかな・・。
  話は戻ります。ゲームの世界でゾンビやモンスターを殺しまくる、時には一般人も。この逆の状態を表示したらどうでしょう。モニターの中に自分が選んだ キャラクターがこちらに銃を向けて発砲する、私の胸に穴が開いて血が飛び散る、または大きな剣で切りつけてきて私の腕が切り落とされる、お腹から内臓が出 てしまう。あなたはこういうことをして楽しんでいるんですよ、と認識できる逆の視点。やられる側の立場が想像できるようにするゲーム。もちろん売れないで しょう。爽快なストレス解消にはならないでしょう。
でも、戦争で、どう?無人攻撃機を飛ばして、離れた基地や戦艦の中でビデオゲームのように画面を見て爆撃。もし撃ち落とされてもこちらは生きている。しかし病院を誤爆して民間人やお医者さんがたくさん死んだら生き返りません。
 誰が償うの?どうやって償うの?

・・・・終戦を機にいろいろ「病んでる」な、と思うことに触れるのも能勢流で、私がテニアン島など南太平洋で見たり、現地の人から伝え聞いたスーサイドク リフの出来事や原爆ピットといった実際に見たなまなましい傷跡と関連づけて掘り下げたいのです。一見無関係のように思える事象は実は同じような構造を持っ ているかもしれないとも思えます。

 戦争自体が「ストレスを作り出して、それを解決するためにお金を払わせる商売」の手法じゃないのかな?と感じるからです。

 この続きはまた後日・・・。

家からは近いけれどあまり人の来ない清流の脇で、戦時中と同じせみの鳴き声、水の音を聞きながら書きました。お昼には正座して般若心経を唱え、各地で散って行った未曾有の命の冥福を祈りました。

  2018年8月15日  記